9 崇徳上皇 (1119 ~ 1164)






~院政の犠牲になって流刑地で憤死した平安末期の上皇~






 崇徳上皇(すとくじょうこう) は5歳で天皇になっています。

 しかし、平安時代末期は院政の時代で、天皇には実権がありませんでした。




 天皇の父親や祖父が実権を握り、院から出す命令である院宣は、内裏での決定よりも権威がありました。




 武士も台頭し、源氏や平氏が力をつけてきました。




 このような中で、崇徳上皇は弟との権力争いに敗れ、流刑地の讃岐(現在の香川県) で鬼のようになって憤死しました。




 この背景には、いったい何があったのでしょうか。




 彼は鳥羽天皇の第一皇子です。

 しかし、なぜか父親には愛されませんでした。




 「古事談」 によれば、実の父親は曾祖父の白河法皇だったというのです。

 白河法皇が孫である鳥羽天皇の妻と密通してできた子が崇徳です。




 事実関係は本人たちにしかわかりませんが、これが事実なら孫の妻に手を出す困った「ひぃおじいさん」 ですね。




 崇徳は鳥羽の子どもどころか、叔父です。


 鳥羽はこのことを確信していたのでしょうか、崇徳のことを「叔父子」 と呼んでいたのです。




 権力をほしいままにしていた白河法皇が亡くなると、その孫で、天皇を退位して出家した鳥羽法皇が院政を開始します。




 崇徳を早々と天皇にしましたが、早々と退位させ、弟、その次の弟というように次々に天皇を変えていったのです。




 院政の権力ですね。




 このような中で、将来院政を行おうとしていた崇徳上皇は焦ります。

 自分の子どもに天皇が回ってこないからです。




 これは、自分も院政ができないということを意味します。

 権力から外れてしまうわけですね。




 1156年、絶好の機会が訪れます。

 鳥羽法皇が亡くなったからです。




 崇徳上皇は権力返り咲きを狙って、弟の後白河天皇と対決することになりました。

 こうして双方が武士を集めだし、衝突して戦いになりました。




 これが歴史上有名な「保元の乱」 です。

 しかし、崇徳上皇方は敗れてしまい、讃岐の国に流されることになったのです。




 それから死ぬまで9年間、讃岐から出ることはできませんでした。

 院政は弟が後白河法皇として行い、大きな権力を振るいました。




 問題は、その後の崇徳上皇の流刑地での生き方です。

 京の都にもどることを熱望し、190巻に及ぶ膨大な写経をしました。




 せめて自分が書き写したお経だけでも、都の寺に納めたいと考え、京へ送ったのでした。




 これに対して都の貴族たちは「このお経には呪いが込められている」 と考え、都へ持ちこむことを許しませんでした。




 あげくの果てに「罪人が書いたものは不吉だ」 として送り返してきたのです。

 崇徳の絶望と深い恨みはいかばかりだったでしょうか。




 「われ、生きても無益なり」

 この一言に崇徳上皇の絶望が凝縮されています。




 自らの指を食いちぎり、その血で経文に呪いの言葉を書いて海に投げたのです。

 心労が心労を呼んで、髪も爪も伸ばし放題になり、化け物のようになったと伝えられています。




 これはちょっと怖いですね。

 「魔王となってこの世を乱してやる」




 悶々と思い詰めながら、46年の生涯を閉じました。




 その死体は火葬されましたが、煙が都のほうにたなびいていったので、その様子を見て一般民衆はおびえました。




 権力争いも、国民にとってはいい迷惑でした。

 もと天皇だったから、いつかは許されると思っていたのでしょうか。




 現実は極めて厳しいものになりました。




 この背景には明らかな差別心の応酬があり、そこから解放されなかったことが生んだ悲劇ですね。



 流刑にはなったものの、命を奪われなかっただけでも助かった、と考えるのは難しかったのでしょうか。




 この意識の持ち方ひとつで、まったく違った9年間を過ごすことも、場合によっては可能だったと考えるのは僕だけでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/231-da7142b7