6 醍醐天皇 (885 ~ 930)





~親政を実行したが怨霊に悩まされ悶死した平安の天皇~





 平安時代の藤原氏の摂関政治が台頭する中で、天皇親政を34年にわたって実行した人物として知られています。



 その治世は「延喜の治」 と称され、後の時代からも天皇親政のお手本としてたたえられました。




 和歌にも優れ、万葉集に選ばれなかった歌をはじめ、当時までの優れた歌を選んだ勅撰和歌集が有名な「古今和歌集」 です。




 しかし、醍醐天皇の最期は、46歳の若さで悶死するという痛ましいものでした。




 いったい彼の身に何があったのでしょうか。




 彼は臣籍に生まれた唯一の天皇でもあります。

 最初は源維城(みなもとのこれざね) と名のっていました。




 のち、父の即位とともに皇族に列し、即位した宇多天皇の第一皇子になったのです。

 9歳で立太子、13歳で即位しました。




 現在でいえば中学1年生ですね。

 20人近い妻と36人の子どもにも恵まれました。




 一生のうち、実にその70パーセント以上を天皇として生きました。




 摂政や関白は置きませんでしたが、藤原時平、菅原道真という優秀な部下に恵まれ、それぞれ左大臣、右大臣として政治にあたらせました。




 901年、事件が起きます。




 左大臣藤原時平からの知らせによると、菅原道真が、醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう) を、天皇として即位させようとしているというのです。




 斉世親王には道真の娘が嫁いでいました。

 同時に、これが実現すれば、自分は退位することになりますね。




 「冗談じゃない」 というのが本音でしょう。

 自分の権力を脅かす者の登場です。




 醍醐天皇は必死になって自分の地位を守ろうとしたのです。

 すぐに道真の右大臣職を解き、九州大宰府への左遷を決めています。




 当事者の道真の言い分は聞こうともしませんでした。

 実はこれが後に命取りになったのです。




 かたくなになった彼は、時平を全面的に信用したので、父親の宇多上皇とも会おうとせず、話も全く聞きませんでした。




 九州へ流された道真は、失意のうちにその2年後に無念の死を遂げています。




 ところがその6年後、頼りにしていた時平がわずか39歳の若さで亡くなったのです。

 この909年からの3年間は、疫病がはやり、日照りにも悩まされました。




 道真の怨霊が噂されはじめます。

 醍醐天皇は、父宇多上皇の享楽的な生活に影響を受け、政務よりも風流に関心がありました。




 詩宴や遊びに明け暮れる彼らの目に、度重なる凶作や疫病に倒れる京都の庶民の姿はどう映っていたのでしょうか。




 923年、醍醐天皇の皇太子が亡くなり、次の皇太子もその3年後に亡くなりました。




 ますます怨霊の噂は広まるばかりです。

 怖くなったので、道真を左遷した詔を覆し、右大臣に復したうえで贈位を行いました。




 これでも不安と心労は亡くなりませんでした。

 930年、極めつけの事件がおこりました。




 京の都の清涼殿を、突然落雷が襲ったのです。

 黒こげになる朝廷の役人たち。




 恐ろしい風景が目の前に現れました。




 大納言の藤原清貫(きよつら) をはじめ、公卿数人が落雷の直撃を受けて焼け死に、醍醐天皇自身も負傷しました。




 その強い衝撃でさらに体調を崩し、同年ついに天皇を辞めてしいました。

 その7日後には出家しましたが、同日苦しみの中で46年の生涯を閉じたのでした。




 九州への道真の左遷は勇み足でしょう。




 権力をほしいままにした人物が、少しでもその権力を脅かされるとたちまち小心者になり、過剰な反応を示すことがあります。




 醍醐天皇の晩年は、その典型的な例といえますね。




 高いところから人を見下ろす差別心から解放されて、的確な判断を大切にすれば、大きな心労で悶死することを避けることができたのではないでしょうか。
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