5 藤原時平 (871 ~ 909)






~出世を急いで無理をし、怨霊に悩まされた平安の左大臣~






 「出世」 とは時平(ときひら) の場合、摂政や関白になることを意味します。

 「無理」 とは菅原道真を九州へ左遷させたことで、「怨霊」 とはその道真の怨霊です。





 時平も優秀な政治家で、醍醐天皇(だいごてんのう) からの信頼が厚く、荘園整理令をはじめとする律令制の再編強化の諸法令を制定して政務に励みました。





 しかし、彼の最終出世目標はついに達成されず、わずか39歳の若さで一生を終えることになったのです。





 なぜでしょうか。





 871年、時平は藤原氏初の関白、藤原基経の長男として生まれました。





 父の威光で、886年の元服のときには、当時の光孝天皇(こうこうてんのう) 自らが加冠役を務めました。




 笑い上戸で、好色でも有名でした。

 叔父の妻に横恋慕し、これを奪うという「事件」 も起こしています。





 890年、20歳で参議になりました。

 とても早い出世の第一歩ですね。





 しかし翌891年、父基経は時平がまだ21歳のときに他界してしまいました。

 897年、時平が26歳になったとき、醍醐天皇が即位しました。





 その2年後には、醍醐天皇のもとで左大臣になりました。

 このときの右大臣が、有名な菅原道真です。





 年長で優秀な学者であった道真は、時平にとってはやりにくい相手だったのでしょう。

 追い落としを企てます。





 道真を大宰府へ左遷するよう、醍醐天皇に進言したのです。

 口実は以下の通りです。





 「道真は醍醐天皇を退位させ、娘婿である弟の斉世親王(ときよしんのう) を即位させようとしています」




 901年、道真は右大臣の地位を奪われ、太宰権師(だざいのごんのそち) という役職に転じられ、九州へ左遷されました。




 そして2年後、失意のうちにそこで亡くなったのです。




 さらに時平は、自分の妹を強引に醍醐天皇の中宮にすえ、生まれた子を皇太子にしました。

 これで摂政・関白への道筋ができましたね。




 皇太子は自分の甥になるわけです。

 一刻も早く天皇になってほしいと願ったことは、容易に考えられます。




 ところがそうはいきませんでした。




 時平の死後ではありますが、この皇太子は結局天皇にならず、923年に亡くなっています。

 道真を失脚させた後、京の都ではやたらと雷が多くなりました。




 同時に、この異常気象は道真の霊による祟りだという噂が広がり始めました。

 ならば、祟りの矛先は明白です。




 時平は後悔し、この怨霊に苦しむことになったのです。

 自分の行いに、やましいところがあったからですね。




 怖くて自分の力ではどうしようもなかったのでしょう。

 ついに天台宗の僧、浄蔵(じょうぞう) を招き、加持祈祷を行わせました。




 怨霊を払いのけようと、必死になっている姿が浮かんできます。




 さらに、呪い殺されることのないように、道真の肖像を一年中掲げ、この肖像に向かって音楽を供していました。





 ここまでやらなければならなかったのでしょうか。





 こうなるともう心労を通り越して、半ば病気という感じすらしますね。

 明けても暮れても道真の怨霊に振り回され、逃げ回っている小心者になってしまいました。





 しかし、時平の「努力」 は報われなかったのでしょうか。

 道真の死からわずか6年後、39歳という若さでこの世を去ることになりました。





 残念ながら、死因は正確にはわかっていません。

 道真の怨霊にやられたという噂だけが広まり、現在まで伝わっています。





 時平はまじめな努力家だったことを考えると、僕は身体の過労と霊を恐れる心労が重なりあい、何らかの病気を誘発したのではないかと思います。





 権力の獲得を急ぎすぎた男の末路をここにも見るようですね。

 身分差別の意識から解放されなかった結末です。





 もう少し、ゆっくりと気長に生きて、人生を楽しむ道もあったのではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/227-9ccf9a65