3 文徳天皇 (827 ~ 858)






~伯父に利用され摂関政治の土台を作って若死にした天皇~






 文徳天皇(もんとくてんのう) の伯父は藤原良房といいます。

 日本史上、臣下で初めて摂政になった人物として知られています。





 平安時代の摂関政治の基礎は、この二人の権力の奪い合いの結果、良房の希望に沿って築かれたと考えられます。




 文徳を天皇にしたのも良房、邪魔になったら遠ざけようとしたのも良房です。





 そして文徳はわずか32歳の若さで謎の急死を遂げました。

 いったい彼に身に何があったのでしょうか。





 少年時代の名は道康親王(みちやすしんのう) といいます。

 父親は仁明天皇(にんみょうてんのう)、母親は藤原順子で、良房の妹にあたる女性です。





 つまり、道康親王と藤原良房は甥と伯父の関係になりますね。

 仁明天皇は最初、恒貞親王(つねさだしんのう) という別の人物を皇太子にしていました。





 ところが、この恒貞親王が皇太子から引きずりおろされるという事件が発生しました。

 842年におこった承和の変(じょうわのへん) です。





 これは、伴健岑(とものこわみね) と橘逸勢(たちばなのはやなり) らが、嵯峨上皇死後の混乱に乗じて反乱をおこそうとしたという噂です。





 ここに恒貞親王が加わっていたというのです。

 真相ははっきりしませんが、これは藤原良房の画策でしょう。





 仁明天皇に圧力をかけて、恒貞親王を皇太子から引きずりおろさせたのです。

 かくして、新しい皇太子に道康親王が確定しました。





 その伯父である良房にとって、都合のよい人事になったことは明らかですね。

 850年、道康親王は文徳天皇として即位します。





 別な言い方をすれば、藤原良房が即位させたのです。





 文徳天皇は人を見る目と政治に対する熱意は持っていましたが、病気がちだったのでしょうか、多くの重要な政務にはなかなか関与できなかったようです。





 彼は第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう) を愛し、期待して皇太子にと考えていました。

 しかし同年、第四皇子が生まれました。





 惟仁親王(これひとしんのう) といいます。

 惟仁の母親は良房の娘、藤原明子(あきらけいこ) です。





 何と生後わずか8カ月で皇太子に立てられたのでした。





 もうおわかりでしょう。





 良房の圧力ですね。





 良房のおかげで即位できた文徳天皇は逆らえません。

 そして、惟仁が将来天皇になれば、良房は外祖父になります。





 この時代、生まれた赤ちゃんは母親の実家で育てられたので、外祖父は大きな影響をおよぼすことになります。




 文徳天皇の死後、惟仁親王は清和天皇として即位し、良房は摂政になりました。


 まさに良房の思うつぼですね。





 文徳天皇は良房に遠慮して頭が上がらず、相当な心労が重なっていたと考えられます。

 内裏正殿を居住の間として生活を送ることはありませんでした。





 内裏の外れにある東宮や、離宮だったところを居住の間としていました。





 これはいったい何を意味するのでしょうか。





 良房から見れば、すでに文徳天皇は邪魔ものでしかありません。

 早く幼い皇太子・惟仁を天皇にして、自分は外祖父として摂政になろうとしていました。





 858年、文徳天皇が32歳で急死しました。

 残念ながら死因ははっきりしていません。





 通説では脳卒中ということになっていますが、一説には暗殺説もあります。

 文徳天皇は健康体そのものであったというのです。





 良房ならやりかねない状況にありますね。





 いずれにせよ、亡くなった文徳天皇は権力争いと心労に疲れ果て、悶々としていたことは間違いないでしょう。




 天皇という重い肩書、権力を奪われる不安と焦り、そしてその背景にある差別心。





 一般民衆は蚊帳の外ですね。





 この事実を民衆は、どう見ていたのでしょうか。
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