2 藤原薬子 ( ? ~ 810)







~手段を選ばず権力に寄り添い自殺に追い込まれた母親~







 藤原薬子(ふじわらくすこ) とは、娘の若い夫を色で奪った困ったお母さん、とでも言えばわかりやすいでしょうか。





 この背景には藤原式家、藤原北家という藤原氏どうしの権力争いがあります。


 まだ桓武天皇が健在の、平安時代初期のできごとです。





 この若い夫というのは桓武天皇の皇太子であり、後に平城天皇(へいぜいてんのう) として即位する人物です。




 よほど薬子は気に入られたのでしょう。

 一時権力を振るいますが、最期は自殺という悲劇で終わります。






 なぜでしょうか。






 薬子の生年はわかっていません。

 桓武天皇に信頼されて、長岡京の造営中に暗殺された藤原種継の娘です。





 藤原不比等の子どもたちである藤原四兄弟がおこした四家の一つ、藤原式家の出身になります。

 797年、宮中に入るきっかけができます。





 娘が皇太子の安殿親王(あてしんのう) に嫁ぐことになったからです。

 このとき薬子は母親であるので、若い娘の介添役として朝廷に入ることになったのです。





 ところが意外なことが起こりました。





 安殿親王は妃の母親である薬子のほうに夢中になり、こともあろうに男女の仲になってしまったのです。




 これを知った桓武天皇は激怒。





 薬子を宮殿から追放しました。

 悲惨なのは娘のほうでしょう。





 大変な屈辱であったことは容易に想像できますね。

 心労がたたったのでしょうか、その後若くして亡くなってしまいました。





 806年、桓武天皇が亡くなると、安殿親王は平城天皇として即位しました。

 するとどうでしょう。





 平城天皇は追放されていた薬子を呼び戻したのです。

 この間8年の隔たりがあり、平城は33歳、薬子は40歳を越えていました。





 驚くべき愛人の威力です。

 事実上の権力を握った薬子は、藤原式家繁栄のために邪魔者を次々に始末しはじめました。





 まず、平城の弟の伊予親王を幽閉して自殺に追い込みました。

 次に同じく弟の神野(かみの) も追放しようとしましたが、これはうまくいきませんでした。





 藤原北家がついていたからです。





 809年、先帝の怨霊を噂された平城天皇は急に弱気になり、弟の神野に譲位してしまったのです。




 神野は即位して嵯峨天皇になりました。

 平城は上皇となったのです。





 この譲位劇で、何も相談を受けなかった薬子は黙っていません。

 反撃に出ようと平城上皇をそそのかしたのでした。





 「奈良の旧都に還り、帝としてのお力をお奪いくださいませ」

 権力が惜しくなったのですね。





 平城は奈良の平城京への遷都を高らかに宣言してしまいました。

 これでは、今度は嵯峨天皇が黙っているはずがありません。





 薬子から官職を剥奪して宮廷から追放し、その兄の藤原仲成(なかなり) も佐渡への配流を決めました。




 これでも薬子は、まだあきらめません。





 平城上皇をたきつけて兵をあげさせたのです。

 かくして戦闘になってしまいました。





 しかし、上皇側には十分な兵が集まらず、たちまち敗北したのです。

 誰が見ても、たくさんの味方が集まるとは思えない状況ですね。





 自分で墓穴を掘ったようなものです。

 平城上皇は敗戦により、あっさりと出家しました。





 薬子はそれでもプライドが許さなかったのでしょうか。

 近くの民家に入って、服毒自殺でその生涯を終えました。





 この事件は歴史上、「薬子の変」 と呼ばれています。


 これほど愛された女性です。





 もっと明るく楽しく生きのびる方法がいくつもあったのではないでしょうか。





 権力にいつまでもしがみつき、その背景にある差別心から最後まで解放されなかったことが、悲しい末路を招いてしまいました。






 そもそも最初から娘の夫に手を出したことが、自殺につながってしまったのではないでしょうか。
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