1 桓武天皇 (737~ 806)






~怨霊に生涯悩み続けた平安時代の初代天皇~






 794年、平安京を作ったことで有名な天皇ですね。

 京都の町は以後1,000年以上にわたって、江戸時代の終わりまで都として栄えました。





 現在でも国際的な観光都市として、世界中に知られています。





 桓武天皇は貧しい庶民の負担を考えて兵役を一部免除したり、遷都した造営中の都づくりも途中でストップさせました。




 一般民衆にとってとてもありがたい政策を実行していますが、怨霊におびえ続け、精神病になって亡くなりました。





 なぜなのでしょうか。





 桓武天皇は順当に天皇になったわけではありません。

 父親の光仁天皇は、皇太子として他戸王(おさべおう) を指名していました。





 母親が皇后だったからですね。

 桓武天皇の母親は身分が低かったのです。





 ところが、この親子は775年に殺害されました。





 光仁天皇を呪い殺そうとしたというのが理由ですが、背後には藤原氏の陰謀があり、無実だったと見られています。





 つまり皇太子が殺されたので、桓武天皇に皇位が回ってきたのでした。

 781年、桓武天皇は平城京で即位します。





 後ろめたさがあったのでしょうか、彼は即位前からすでに、前皇太子と前皇后の怨霊を恐れていました。




 公地は荒れ果て、口分田を人々に分け与えることができませんでした。





 皇族の中でも、二つの派閥に分かれ、桓武天皇の皇位継承を否定的に主張する権力争いもありました。




 あげくの果てに、桓武天皇の皇太子はすでに弟の早良親王(さわらしんのう) であると父親の光仁天皇が決めていました。





 子どもではなく弟です。

 奈良の寺院の旧勢力もやかましく、平城京はとても居心地が悪かったのです。





 784年、ついに遷都をします。

 場所は京都の南西にある長岡京というところです。





 信頼していた藤原種継(たねつぐ) に都づくりを任せました。

 ところが翌年、種継が暗殺されてしまったのです。





 この暗殺に早良親王がかかわっていたという噂が流れました。





 親王は無実を主張しましたが、桓武天皇によって淡路島に流され、その途中で死亡したのでした。




 しかし、長岡京はなかなか完成しません。





 早良親王の死後、代わって皇太子になった息子の安殿親王(あてしんのう) が病気になったり、母と二人の妃が次々に亡くなりました。





 洪水や伝染病もはやったのです。

 「早良親王の怨霊のせいではないか」





 ますます悩みは深まるばかりです。

 794年、和気清麻呂が2回目の遷都を勧めます。





 「うむ、そうすれば怨霊から逃げることができるかも知れぬな」

 こうして選ばれた土地が京都なのです。





 もう、おわかりでしょう。





 平安京遷都の本音は、何と桓武天皇が怨霊から逃れるためだったのです。





 それでも洪水や干ばつの被害があると、怨霊のしわざとしてそれらを鎮魂する儀式を行いました。




 有名な祇園祭をはじめとする京都の多くの祭はこの怨霊鎮魂を起源としています。

 「しかし、民は今でも苦しんでいるではないか」





 桓武天皇の悩みはなくなりません。

 早良親王や他戸王の怨霊に、おびえる不安がなくなったわけではありません。





 幻聴や被害妄想が相次ぎ、現在でいう統合失調症の症状が出てきました。





 桓武天皇は亡くなった弟の早良親王に崇道天皇(すどうてんのう) の称号を送り、その遺骨を淡路島から大和に改葬して正式な天皇陵としました。





 さらに淡路島には早良親王のための大寺院を建立しているのです。


 ここまでやらなければ納得できなかったのでしょうか。





 確かに権力は得たけれども、その生涯は常に何かにおびえ続けた悩み多きものでした。





 彼の生き方、考え方一つで、もっと心労から解放された人生を歩むこともできたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
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