11 孝謙天皇 (718~770)






~強権を発揮し神経症の果てに孤独死した奈良の女帝~






 聖武天皇の娘で、少女時代は安倍内親王と呼ばれていました。

 母親は有名な光明皇后です。





 生まれた時から、事実上の皇太子でした。





 この時代は天皇の権限が非常に強くなっており、華やかな天平文化を満喫することができました。




 彼女も強力な権力を発揮し、一度譲位した次の天皇の位を奪い、一人で2回も天皇をやっています。




 しかし、最後は失意の中で神経症に侵され、孤独の中でその一生を終えました。






 なぜでしょうか。






 安倍内親王が生まれた718年という年は、まだ父親が天皇になる6年前にあたります。

 だから、聖武天皇が悩み、苦しんだ一連の出来事はともに体験しています。





 繰り返される天災や伝染病の流行、臣下の反乱、数度にわたる遷都など、心労で落ち着かなかったことでしょう。




 生まれながらの皇太子であることが大きな負担になったとも考えられます。





 公人としての形が重視され、気の休まることも少なかったのではないでしょうか。

 749年、心労でくたくたになった父親から天皇の位を譲り受けます。





 32歳の女帝、孝謙天皇の誕生です。





 なぜ生涯独身を通し、夫も子どももいなかったのかはよくわかりません。

 魅力的な男性がいなかった、と言ってしまえばそれまでです。





 しかし一説によると、このころに藤原仲麻呂と良い関係にあり、男女の仲にもなったことがあるのではないかといいます。




 根拠は孝謙天皇が仲麻呂の私邸に何度も通い、外泊したということです。



 いずれにせよ真相は不明です。





 758年、子どもがいなかった孝謙天皇は、遠戚にあたる大炊王(おおいのおう) に譲位します。




 淳仁天皇(じゅんにんてんのう) といいます。





 しかし、彼は藤原仲麻呂の傀儡(かいらい) だったのです。

 仲麻呂は太政大臣までになり、名を恵美押勝(えみのおしかつ) と改めて権力を振るいました。





 このころになると、上皇となった孝謙天皇は両親を亡くして一人きりの孤独な状態になっていました。




 自分を一番に愛してくれる愛情に飢えていたのかもしれません。





 待望の男性が現れました。

 道鏡という僧です。





 ノイローゼぎみで体調を崩した孝謙上皇に対して、熱心に祈祷を行い看病したのでした。

 彼女は道鏡に絶大なる信頼を寄せました。





 愛欲生活に浸ったとも見られていますが、こちらも真相は闇の中です。

 この不適切とも見える男女関係に、恵美押勝と淳仁天皇が忠告しようとしました。





 ここを指摘された孝謙上皇は、烈火のごとく怒ります。

 ヒステリーですね。





 たちまち淳仁天皇の政権を奪ってしまいました。

 おさまらないのは太政大臣の押勝です。





 ついに武力衝突に発展します。

 歴史上「恵美押勝の乱」 とよばれるできごとです。





 戦いは先手を打った孝謙上皇が勝ちました。





 押勝は処刑され、淳仁天皇は淡路へ島流しになりました。

 彼女は再び即位して皇位に返り咲くことになりました。





 称徳天皇といいます。





 いずれにせよ、一般民衆にとっては迷惑な話ですね。

 どちらが勝とうと、権力をもっと民衆の暮らしのために使ってほしいと願っていたと思います。





 称徳天皇はますます道鏡を信頼し、次々に高い位を与えていきました。

 ついに、法王にまで出世させたのです。





 最終的には、道鏡を天皇にしようとまで考えました。

 しかし、これは当時の誰もが「えこひいき」 としか見ませんでした。





 野望は見事に崩され、称徳天皇はあまりの失望に、またしても病に倒れます。


 わずか1年後、彼女は道鏡にも会えず、孤独の中で亡くなりました。





 常に上から目線で、他人に接していた女性の寂しい末路です。





 彼女はもっと対等に、もっと楽しくお話ができ、自分を本当に愛してくれる人を求め続けていたのではないでしょうか。
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