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10 聖武天皇 (701~756)






~度重なる難題に疲れ果て仏教にすがった奈良時代の天皇~






 奈良の大仏で有名な、東大寺を作った天皇として知られていますね。

 僕は10代の頃、奈良時代を次のようなイメージでとらえていました。





 「華やかな平城京、香り高い天平文化、優雅な貴族たち」

 



 聖武天皇はこの時代を代表する、優れた天皇だったとも考えていました。

 しかし、これはほんの一部の人たちのことで、一面的な側面にすぎません。





 今はこのイメージを、大きく転換せざるを得ないと思うようになっています。





 なぜでしょうか。





 聖武天皇が即位したのは、724年です。

 当時としては決して早くなく、父親の文武天皇が亡くなったときの年齢と同じです。





 父親の死後、2人の女帝が次々に即位し、延々と待たされたという見方も可能です。





 やっとできた基皇子(もといのみこ) は生後2カ月で皇太子にしましたが、1歳にもならないうちに病死しました。





 ここで長屋王の変が起こります。





 真相ははっきりしませんが、基皇子を呪い殺したとして、長屋王が自殺に追い込まれた事件です。




 737年、天然痘が流行し、多くの人々が亡くなりました。

 聖武天皇が頼りにしていた藤原四兄弟も、次々に死亡したのです。





 聖武天皇は悩みました。

 「天災や疫病がこんなに続くのは、私の政治が悪いからだろうか」





 740年には、九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ) が反乱をおこします。





 すぐに鎮圧軍を派遣しますが、天皇にとっては心労に心労を重ねていくことになるのは明白です。




 何とこの乱の途中で、遷都してしまいました。

 恭仁京(くにきょう) といいます。




 逃げたのですね。




 このとき仏教の力を借りようと、諸国に国分寺と国分尼寺を建てることを決めました。

 しかし明くる年の742年、またしても遷都します。




 今度は現在の滋賀県にある紫香楽宮(しがらきのみや) です。

 唐の国にならって、大仏づくりを始めました。




 ところが、この大仏づくりをはじめたら、またまた遷都です。

 行先は難波宮です。




 さらにしばらくして、紫香楽宮に戻ってしまいました。

 こうなると、もう病気ですね。




 さすがに、臣下たちもお手上げです。

 結局、臣下たちに諌められたのでしょう。




 最後は平城京に戻りました。

 そして、大仏づくりは始めからやり直しです。




 不幸は輪をかけるようにしておこります。

 744年、聖武天皇の第2皇子、安積親王(あさかしんのう) が亡くなりました。




 死因ははっきりしません。

 病死説と暗殺説がありますが、僕はよく調べていくと後者の方に説得力があると考えています。





 いずれにせよ、死んだ皇子たちは帰ってきません。

 聖武天皇の心労は、ますます深まっていったのです。




 「私はほとほと疲れ果てた。娘に皇位を譲る」

 こうして、天皇の位を引退しました。




 749年のことです。

 東大寺の大仏が完成したのは、3年後の752年のことです。




 仏教の力で国民の心をまとめ、国を守ろうとする考えはよくわかります。




 しかし、実際には大仏づくりで汗を流したのは一般民衆であり、多くの犠牲者が出たのも一般民衆であるということも事実です。




 その4年後、聖武天皇は権力と心労で悩みに悩んだ生涯を終えました。


 奈良時代は少数の支配者階級と、大多数の貧しい農民という矛盾した構造になっています。





 万葉集には山上憶良(やまのうえのおくら) の貧窮問答の歌が載っています。

 近年は歴史の教科書や資料集でも、大きく取り上げられるようになりました。





 食事や住居、服装などの極端な違いも写真つきで掲載されています。





 極めて貧しい多くの人々の実態を知れば知るほど、何とかならなかったのだろうかと考えてしまします。




 数々の悲劇を繰り返さないためにも、この時代に生まれた人々の生きざまは、後世に生きる僕たちに多くのことを教えてくれているのではないでしょうか。
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