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9 長屋王 (684~729)






~血筋のプライドから自殺に追い込まれた奈良の皇族~






 天武天皇の孫です。

 左大臣という要職に就き、皇族を代表する優秀な官僚でした。




 東北地方の蝦夷を破って、多賀城という朝廷の重要拠点を築きました。

 税収の増加を目指して、三世一身の法も定めています。




 教養高き文化人で、詩や歌にも優れ熱心な仏教信者でもありました。

 後に唐の鑑真が来日を決意したのは、日本に長屋王がいたからだとさえいわれています。




 しかし、最期は不幸にも服毒自殺に追い込まれました。




 いったい、彼の身に何があったのでしょうか。




 長屋王の父は天武天皇の皇子で、母は天智天皇の皇女でした。

 元明天皇の同母姉でもあります。




 天皇として即位することも可能な血筋ですね。

 だから、順調に出世していきました。




 これに対して奈良時代の聖武天皇の母親は藤原宮子で、皇族ではありません。

 臣下の藤原氏の娘なので自分のほうが血筋は上だ、と考えていたかもしれません。




 この差別心から解放されない頑強なプライドが、後の権力争いに結びついているのではないかと僕は考えています。




 724年、辛巳事件(しんしじけん) とよばれる事件がおこります。




 これは、聖武天皇の生母藤原宮子に対して勅令によって与えられた尊称「大夫人(だいぶにん)」 が突如撤回された事件です。




 尊称に反対したのは皇族の勢力でしょう。




 その代表は長屋王です。




 臣下出身の生母に特別な尊称を与えて、その格式を高めようとしていた藤原四兄弟は恥をかかされ、長屋王を恨むことになったのです。




 いつか、やっつけてやろうと考えたのではないでしょうか。

 次に藤原四兄弟は聖武天皇の夫人、藤原光明子を皇后の位に立てようとします。




 自分たちと母親は違いますが、父親はもう亡くなっていても、同じ藤原不比等です。

 こうすれば、藤原氏の格式は大いに高まることでしょう。




 しかし、ここでまたしても長屋王の反対にあいます。

 「皇族でない者が皇后の位に就くなどありえぬ」




 確かにそれまでは、「皇后」 という地位は皇族出身の女性に限られていたのでした。

 否定された藤原四兄弟の怒りは頂点に達します。




 729年、絶好の機会が訪れます。

 前年に光明子が産んで皇太子に立てられていた基皇子(もといのおうじ) が病死したのです。




 聖武天皇と光明子の悲しみはあまりにも深く、言葉では書きつくせないほどのものだったでしょう。



 さまざまな説がありますが、僕はこの不幸なできごとを藤原四兄弟が利用したのだと思います。




  次のような密告を、他人にさせたのです。

 「長屋王が密かに基皇子を呪い殺した」

 




 この時代は「呪い」 が深く信仰されていた時代でした。

 冤罪(えんざい) であろうとそれらしき証拠が出れば、簡単に犯人にすることができたのです。




 密告により、すかさず実力行使に出ます。




 藤原四兄弟の一人、藤原宇合(うまかい) らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲しました。



 舎人親王(とねりしんのう) などによる、執拗な糾問を受けることになってしまいました。




 その詳細は定かではありませんが、結果として長屋王は服毒自殺という死の道を選択することになったのです。




 この事件は日本史上、「長屋王の変」 とよばれています。




 冤罪に対する抗議の意味があったのか、疑いをかけられた呪いそのものか、それに準ずる発言をしていたことがあったのか、今となっては亡くなった本人にしか真相はわかりません。




 差別意識から解放されなかった男の末路は、悲惨なものでした。





 しかし、一般民衆はもっと大変な目にあっていたのではないでしょうか。



 逃亡者や野垂れ死にする人々が後を絶ちませんでした。





 もっと庶民の立場に立ち、ともに生きようと考える人に政治をしてほしかったと願うのは僕だけではないと思います。
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