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6 天智天皇 (626~671)






~権力を握っても心労と不安におびえ続けた近江の天皇~






 滋賀県の大津に都があったことをご存知でしょうか。

 飛鳥時代の中のわずか数年間でしたが、大津京という都が実在しました。





 遷都者は天智天皇です。





 即位前の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) という名でも広く知られる、古代の有名人の一人です。




 さまざまなライバルたちとの競争に打ち勝ち、天皇という最高の地位をものにした彼は、ある意味では時代の勝利者です。




 しかし同時に、生涯にわたって何かにおびえ続けた憶病者だったとも考えられます。





 なぜでしょうか。





 626年、中大兄皇子は舒明天皇の皇子として生まれました。

 母親も後に天皇になり、皇極天皇(こうぎょくてんのう) と呼ばれています。





 他の天皇候補者も何人かいましたが、皇位を継承するのに十分な血筋です。

 しかし、当時は有力豪族である蘇我氏の黄金時代で、天皇の地位も左右されるほどでした。





 すでに崇峻天皇(すしゅんてんのう) などは、蘇我馬子によって暗殺されていました。





 こんな中で645年、聖徳太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおうのおう) が蘇我入鹿によって自殺に追い込まれるという事件が発生したのでした。





 中大兄は、自分の命も危ないと感じ恐れたことでしょう。

 このとき彼の力量を見抜いた中臣鎌足(なかとみのかまたり) が近づいてきました。





 蘇我を滅ぼすということで意見が一致した二人は、協力して蘇我氏を滅ぼしました。





 同じ年、ライバルになる古人大兄皇子(ふるひとのおおうのおうじ) に謀反の疑いをかけて殺害しています。




 658年にはやはり、有間皇子にも謀反の疑いをかけて殺害しました。





 これらの行動の背景には、自分もいつ殺されるかわからないという恐怖が横たわっているのは明白ですね。





 対外的にも、恐怖と不安がありました。





 仏教伝来以来、日本と関係深い朝鮮半島の百済(くだら) の国が、唐と新羅(しらぎ) の連合軍により攻められたのです。




 この連合軍という作戦を立てた人は、中国史上唯一の女帝として知られる唐の則天武后です。




 661年、中大兄皇子は百済再興軍を率いて九州まで行きますが、そこで母親の皇極天皇が病死します。



 さらに663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいました。



 そして百済は滅亡です。





 「次は日本が危ない」





 これが相当な不安だったのでしょう。

 まず、九州に防衛基地として大宰府をつくりました。





 次に、九州から飛鳥までの間に、いくつもの城を築かせました。

 「まだ安心できぬな」





 それでも不安は払拭できません。





 667年、ついに都そのものを、中国・朝鮮半島から見てさらに奥地になるところへ移しました。




 こうして選ばれた土地が、近江の国大津京です。

 つまり大津京は、中大兄皇子が対外戦争の不安から遷都した都だったのです。





 668年、彼はこの大津京で正式に即位しました。

 これが天智天皇です。





 大化の改新から23年。

 亡くなったのは671年ですから、天皇としての在位はわずか3年ほどですね。





 生涯のうちでは皇子の時代が大半だったということになります。

 しかし、即位してもまだ別の不安が残っていました。





 次の皇位継承です。





 息子の大友皇子に継がせたいというのが本音ですが、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ) が次の天皇であることは、朝廷の誰もが認めるところでした。





 大海人皇子は賢く、身の危険を感じるとさっさと出家し、吉野へこもりました。

 あれほど殺人を繰り返してきた兄など、信用できるはずがないですね。





 大海人皇子は、後に天武天皇として即位したことは広く知られています。


 天智天皇は病死なのか他殺なのか、詳細ははっきりしません。





 ただ、最期まで心労と不安におびえ、恐怖から解放されなかったことは事実でしょう。





 殺人以外の方法で、この恐怖と不安から解放されることはできなかったのでしょうか。
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