5 孝徳天皇 (596~654)






~甥に利用され妻にも見放されて孤独死した難波の天皇~






甥(おい) とは中大兄皇子で、妻とは中大兄の妹、間人皇女(はしひとのひめみこ) です。

つまり、孝徳天皇の姪にあたる人物でした。




大化の改新の諸改革が行われたときに、天皇として君臨していました。




朝鮮半島からもしばしば使者が訪れ、遣唐使も派遣したので、国の内外にわたって朝廷の権威が確立しはじめている時期でした。




しかし孝徳天皇の最期は、現在の大阪で孤独死という結果で終わっているのです。




なぜでしょうか。




596年、彼は敏達天皇の孫として生まれています。

母親も舒明天皇の孫です。




 温和な性格で、少年時代は軽皇子(かるのおうじ) と呼ばれていました。

 蘇我氏との姻戚関係がないため、皇室の主流から外れていたのです。




 本来なら天皇になれない立場の人で、ほかの候補者が何人もいました。




 ところが645年、乙巳の変(いっしのへん) が突然おきて蘇我氏がほろんだため、軽皇子に天皇の地位が転がり込んできたのです。




 当時の皇極天皇(こうぎょくてんのう) は、目の前で蘇我入鹿が殺されるのを見てショックを受け、退位を決意します。




 皇極天皇は、中大兄皇子の母親に当たる人物です。



 息子に皇位を譲ろうとしましたが、そうはいきませんでした。




 事件は起きたばかりで、まだ蘇我氏寄りの勢力や中大兄に対する敵対勢力もあり、朝鮮半島の情勢も不安定なものがあったからでしょう。




 そこで傀儡(かいらい) として担ぎ出されたのが軽皇子です。

 中大兄皇子は皇太子として、自由に動ける立場を選択したのです。




 孝徳天皇の名のもとに諸改革が実行され、唐の律令政治を手本にした政治で、朝廷の権威が次第にゆるぎないものになっていったのでした。




 都も難波京に移し、その間に中大兄の敵対勢力も次々に滅ぼされていきました。




 あまり目立ちませんが、僕は年長で策略的な中臣鎌足が、裏で中心的な働きをしていたのではないかと考えています。




 でも、どうでしょうか。




 大化の改新は朝廷にとって、都合のよい政治になっていないでしょうか。

 厳しい税制や労働の強制は、一般民衆にとって過酷だったのではないかと思います。




 人権が尊重されていたとは、とうてい考えられません。

 この疑問は、次の奈良時代になってはっきりと表面化してきます。




 孝徳天皇は、リーダーとしても男性としても、あまり信頼されていなかったようです。

 皇后の間人皇女は、兄の中大兄皇子と人の道ならぬ近親相姦の関係にありました。




 653年、中大兄は都を飛鳥に戻すように天皇に進言しました。

 天皇はこれを拒否しています。




 この遷都は天皇を無視して、強引に実行されました。

 皇族たちやほとんどの臣下たちも、中大兄に従って飛鳥へ戻りました。




 孝徳天皇にとっては頼みの皇后、間人皇女までが飛鳥へ行ったので難波に置き去りにされたようなものですね。




 言葉に尽くせない耐え難い心労だったことでしょう。




 「名前だけ」 の孤独な天皇の姿が浮き彫りになってしまいました。

 やがて孝徳天皇は病気になり、難波に残されたままこの地で亡くなりました。




 これでは、死ぬために天皇になったようなものですね。

 もともと天皇の器ではなかったとも考えられます。




 こうなることを予想して、天皇になることそのものを辞退することはできなかったのでしょうか。




 地位と権力に目がくらみ、その背景に差別心があれば、最高の位を辞退することはできませんね。




 この孝徳天皇の生き方からも、後世に生きる僕たちはとても大切なことを学べるのではないでしょうか。





 根本的に差別心から解放され、自分の力量に適した生き方をすれば、もっと実りある人生を送れたのではないかと思います。
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