4 蘇我蝦夷 (586~645)






~強力な権力が反感を買い自殺に追い込まれた飛鳥の大臣~






 それにしても差別的なあだ名をつけられたものです。

 蝦夷(えみし) というのは本名ではありません。




 異端児、異民族、野蛮人などの意味をもつ、人を見下した言葉です。

 彼の父は蘇我馬子、息子は蘇我入鹿といいます。




 馬子と入鹿で馬鹿とも読めますね。

 歴史は勝者によって作られます。




 だから滅ぼされた敗者を必要以上におとしめ、勝者の正当性を強調しようとすることがよくあるので注意が必要です。




 蘇我氏=悪人というイメージは勝者によって作られたものでしょう。




 勝者とは大王(おおきみ) と中臣氏、つまり後の藤原氏です。

 大王に寄り添って権力を発揮した蘇我氏に代わって、藤原氏が栄えます。




 後の藤原氏の栄華を正当化するためには、先祖である中臣鎌足(藤原鎌足) が偉人であることが大切になるわけです。




 権力の交代劇と見ることもできます。




 残念なことに、一般民衆の声はほとんど聞こえてきません。




 いずれにせよ、どちらが勝っても民衆のためになる人と政治が、広く民衆から望まれたのではないでしょうか。




 この後の「大化の改新」 の政治内容が問われるわけですね。

 586年、蘇我蝦夷は馬子の子として生まれます。




 父親の強権を引き継ぎ、蝦夷も大臣(おおおみ) として権勢を振るいました。

 皇位の継承も事実上、蝦夷が決めています。




 舒明天皇は彼が即位させました。




 天皇になれる他の候補者もいましたが、その候補者を推薦した自分の叔父を殺害してしまいました。




 ちなみに候補者の名は、山背大兄王(やましろのおおうのおう) といいます。

 有名な聖徳太子の子どもですね。




 644年、蝦夷は甘橿丘(あまかしのおか) に邸宅を構えます。

 飛鳥全体を見下ろし、天皇の住居までも眼下に見下ろせる丘の上です。




 家の周囲には柵をめぐらし、常時護衛が警護していたので、まるで要塞のようですね。




 この屋敷は宮上の門(みかど) と呼ばせ、息子の入鹿には、冠位十二階の最高位である紫の冠を与えました。




 これらのことから、蘇我蝦夷も父と同様に、天皇をしのぐ実質上の最高権力者であったと考えられます。




 ところが645年、息子の入鹿が早まった行動に出ます。




 次の皇位継承候補者の皇子たちはたくさんいましたが、蘇我氏にとっては古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ) が最もやりやすく即位を望んでいました。




 対立候補の中でも、特に山背大兄王は人望があり優秀だったのでしょうか。

 入鹿は危機感を感じていました。




 父の蝦夷を無視して兵を動かし、山背大兄王の館を襲いました。

 家族もろとも集団自殺という悲劇に終わったのでした。




 この事件を受けて、今度は中臣鎌足と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) が蘇我入鹿を殺害します。



 心労に心労を重ねた父の蝦夷は、蘇我氏の邸宅に火を放ち、自殺に追い込まれたのでした。




 この事件を歴史上、乙巳の変(いっしのへん) と呼び、これ以後の新しい政治改革を大化の改新といいます。




 ここに飛鳥時代の有力豪族、蘇我氏が滅亡したのでした。




 確かに息子の入鹿は殺人者ですが、実際の入鹿は非常な秀才だったという意見もあります。




 ちなみに、中大兄皇子は後に天智天皇として即位する有名人ですが、教科書には書かれていないことがあります。




 彼は、乙巳の変の後、古人大兄皇子や有間皇子などの皇子たちをはじめ、自分の即位に邪魔になる人物を次々に殺害しているのです。





 血なまぐさい殺人が、また殺人を呼ぶ結果になりました。





 権力にこだわりすぎた人々の血の応酬です。





 差別心から一人でも多く解放されていれば、人生半ばで殺される人をもっと少なくできたのではないでしょうか。
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