3 聖徳太子 (574~622)





~理想国家建設の夢半ばで倒れた飛鳥の皇子~





 古代最大の有名人ですね。

 その人柄と豊かな知性と教養で、実に多くの人々から尊敬され、愛されました。




 中学や高校の歴史の教科書や資料集にも、必ず登場する人物です。

 推古天皇の摂政として、積極的に朝廷の権威を高める政治を行いました。




 法隆寺を始めとする、飛鳥文化の中心人物としても活躍しています。




 大国の隋にも媚びることなく、対等の外交をしたこともこの時代においては特筆されるべきことでしょう。




 彼の偉大さを語る伝説的なことも数多く語られていますが、わからないことが一つあります。

 それは、聖徳太子の死因です。





 なぜでしょうか。





 574年、太子は後の用明天皇の皇子として馬小屋で生まれました。





 母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ) が馬小屋の前で急に産気づいたからだといいます。




 だから、少年時代は厩戸皇子(うまやどのおうじ) と呼ばれていました。

 小さいころから聡明で、仏教もよく学んでいました。





 蘇我氏の血を引くことから、仏教を通して蘇我馬子と協力関係にありました。

 宿敵である、物部氏との戦争にも参加しています。





 物部氏は滅ぼされましたが、たくさんの人々の血を見ることになりました。

 少年だった太子の心が、穏やかなはずはありませんね。





 僕が不思議に思うのは、飛鳥が政治の中心でありながら、なぜ彼はあえて斑鳩(いかるが) に住んだのかということです。





 飛鳥の北西、約20キロのところです。





 ここを馬に乗って通勤していたのです。

 2時間くらいかかるのではないでしょうか。




 実は斑鳩は、聖徳太子と結婚した4人の女性の中の一人の根拠地だったのです。

 名前は膳部郎女(かしわべのいらつめ) といいます。




 法隆寺も斑鳩にありますね。

 ちなみに、他の3人の女性はすべて政略結婚です。




 ここに、彼の生き方の本音が見えるような気がするのは僕だけでしょうか。

 聖徳太子には14人の子どもがいます。




 このうちの過半数である8人が、膳部郎女との間にできた子なのです。

 彼女こそ、聖徳太子が最も愛した女性であった可能性は濃厚ですね。




 さらに、飛鳥では蘇我馬子が威張っています。

 目の上のたんこぶのような存在だったのでしょう。




 太子が苦労して作った、冠位十二階の制度に入れられることをも拒否するほどの権力者です。

 以前に即位していた崇峻天皇(すしゅんてんのう) は、蘇我馬子に暗殺されているのです。




 馬子の意にそぐわない物部氏は滅ぼされ、崇峻天皇は殺されました。

 推古天皇は馬子の姪であり、飾り物的な存在にされていたのでしょう。




 用明天皇も馬子の甥で、聖徳太子には自分の娘を一人、政略結婚で嫁がせています。

 当時の実質的な最高権力者は、蘇我馬子であったと考えられます。




 聖徳太子だって馬子の意にそぐわない行動が重なれば、命を狙われたかも知れません。




 この権力志向で上から目線の馬子の威圧に、太子は生涯悩まされ心労が重なっていたのではないでしょうか。




 大臣(おおおみ) という地位を傘に着た差別的な言動が多かったと考えられます。

 かと言って、自分の妻の一人の父親です。





 失礼な扱いもできないでしょう。

 ここで、注目すべき仮説が一つあります。





 聖徳太子の死因は「心中」 だったのではないかという説です。

 お相手はもちろん膳部郎女です。





 622年、太子は推古天皇や馬子よりも先に亡くなります。

 驚くべきことに、この数時間前に膳部郎女が亡くなっているのです。





 史書は死因について、一切触れていません。


 まるで死因を隠すかのように。





 真相は永遠に闇の中ですが、この説には説得力がありますね。





 政治と権力をめぐる人間関係の煩わしさから、早く解放されたいと願っていたのかも知れませんね。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/213-434bc1d4