2 用明天皇 ( ? ~ 587)






~有力豪族の権力争いに巻き込まれ早死にした短命の天皇~






 聖徳太子の父親です。

 飛鳥時代の天皇で、この時代は大王(おおきみ) と呼ばれていました。




 仏教を公認し、後世の仏教が発展するきっかけを築いた天皇です。

 現在の僕たちの生活にも、極めて大きな影響を及ぼしました。




 あまり目立ちませんが、日本の歴史上、大きな役割を果たしていたとも考えられます。

 その用明天皇は即位後、わずか2年足らず、30代ほどの若さで早死にしています。





 なぜでしょうか。





 生年は不詳ですが、彼は欽明天皇の第四皇子として生まれています。

 母親は有力豪族である蘇我氏の娘でした。




 当時は、古墳時代の大和王権から続いている氏姓制度がありました。

 差別的な身分制度の始まりになっていたとも考えられます。




 そもそも大和王権は有力豪族たちの連合政権で、中心は大王ですが、後の時代の天皇ほど大きな権力はなかったようです。




 飛鳥の朝廷も日本全国を支配したわけではなく、現在の日本全体の半分前後だったのではないでしょうか。




 585年、用明天皇が即位しました。




 臣(おみ) と連(むらじ) は、氏姓制度の中でも特に有力な立場で、彼は蘇我馬子を大臣に、物部守屋を大連に任命したのでした。




 言い換えれば、蘇我氏と物部氏にさらに大きな発言力が与えられたということです。

 馬子と守屋は権力争いの真最中で、この争いは彼らの父親の代からすでに始まっていました。




 対立の原因の中に、宗教がからんでいます。

 蘇我氏は仏教、物部氏は日本古来からの国つ神でした。




 武力に自信のある物部氏は、事あるごとに仏教を攻撃しました。

 その背景には、外国から来た新しい物を排除しようとする差別心が見えますね。




 用明天皇は、身内の病気や権力をめぐるトラブルに悩まされ、自分自身も病に苦しみました。

 そんな中で仏教のすばらしさを理解し、信仰しようと決心したのでした。




 「私はみ仏を信じようと思うが、そちたちの意見を聞きたい」




 この一言が、蘇我と物部の対立の火に油を注ぐことになってしまいました。

 物部守屋を中心に、大反対の声が上がったのです。




 蘇我馬子を中心に大賛成の声も上がりましたが、結局大きな混乱を招くことになり、用明天皇は心労でますます病が悪化してしまったのです。




 現在の僕たちは、基本的人権を尊重した憲法により、信仰の自由が認められています。

 飛鳥時代の大王は、自分の信仰を自分で決めることができなかったのでしょうか。




 あるいは、このような混乱を招くことが、事前に察知できなかったのでしょうか。




 ならば、リーダーとしての強権を発揮するか、それができなければ、大王の位を譲位した後に信仰に入るなど、他にも生きる道はあったのではないかと思います。




 「私は大王だ。私だけで決めるわけにはいかぬ」

 この用明天皇の言葉は、臣下の考えを尊重しています。




 しかし、これでは不自由で、結局は自分を自滅に追い込むことにつながってしまいました。

 587年、用明天皇は亡くなります。




 病名は天然痘だったという説がありますが、詳細についてはわかっていません。




 ただ彼の早すぎる死には、大王という肩書と権力、それに伴う不自由と心労が大きく関係していると考えられます。




 後に蘇我と物部が戦争を起こし、たくさんの罪もない人々が傷つき、死亡していったことも歴史上の事実です。




 この戦争の根本的な原因は、権力への執着と、人を見下す差別心ですね。




 彼らがもっと解放的な考えをもち、一人一人の人間を人間として尊重することができたとしたらどうでしょう。




 もっと楽しく、より心豊かに生きることができたのではないでしょうか。
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