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10 毛沢東(もうたくとう) (1893年 ~ 1976年)





~権力返り咲きで孤独になった社会主義中国の建国者~





 その生涯に、光と影がはっきりした人物ではないでしょうか。




 「光」 とは国民の大多数の農民の立場に立って、中華人民共和国を建国した世界史に残る英雄でしょう。




 「影」 とはその政策の失敗と粛清により、数千万人の国民を犠牲にした独裁者だと思います。




 ヒトラー、スターリンとともに、毛沢東は「世界の3大殺戮者」 の一人と呼ぶ人もいるほどです。



 プラスの意味でもマイナスの意味でも、両面からの「権力」 のすごさを感じさせる生き方をしました。



 1893年、毛沢東は湖南省の裕福な農家の三男として生まれています。




 師範学校を卒業後、北京大学の図書館員になりました。

 その後、中学校の歴史の教員をやったり、出版社を設立したりしました。




 彼が世に出るきっかけになったことは、1921年に上海で行われた中国共産党の結党に参加したことでしょう。




 このとき、毛沢東は20代の若さでした。




 このころの共産党は農民を大切にし、農民の立場に立って孫文の呼びかけにも応じて政策に協力していました。




 しかし、蔣介石が国民党のトップに立つと、その思想の違いから敵対してしまいました。


 さらに日中戦争で、日本とも戦うことになったのです。




 苦しいながらもこのピンチを切り抜けられたのは、毛沢東が提案した「抗日民族統一戦線」 のおかげでしょう。




 戦後再び国民党と共産党の内戦になりましたが、これに勝利して1949年「中華人民共和国」 の建国宣言をしました。




 毛沢東主席の誕生です。




 「人民のものは針一本たりとも盗るな」




 この一言に象徴されるように、毛沢東の「人民解放軍」 は常に規律正しく、民衆からも広く支持されていました。




 ところが、建国後の政策は大きな失敗をもたらします。




 彼が打ち出した「大躍進政策」 と名付けられた増産計画は、結論を先に言うと、約3,000万人の餓死者を出したのです。




 全国の農村に原始的な溶鉱炉を築かせ、農民は鉄の生産を競い合いました。

 燃料となる薪を手に入れるため、樹木は切り倒されて、山は丸坊主になったのです。




 農作業放棄のため、農業生産物は激減して激しい飢餓がおこりました。




 中には幼児を誘拐してきて殺し、その肉をウサギの肉と偽って売るような悲惨な事件もおきました。




 あげくの果てに、生産した鉄は粗悪で使い物になりませんでした。

 これでは大躍進どころか、大後退ですね。





 失政は火を見るより明らかです。

 さすがに毛沢東も、政界から手を引く決意をしました。





 この心労からか、彼は肉を口にしなくなりました。




 しかし、一度は権力を手にしていたので「再び」 と願ったのでしょうか、数年後に暴挙に出ます。




 悪名高き「文化大革命」 です。





 毛沢東を崇拝する学生を中心に「紅衛兵」 という集団を組織し、暴力で政権を奪還して独裁者になったのです。




 政敵を次々に殺しまくり、中学生は担任の教師にリンチを加え、大学生は毛沢東に批判的態度をとる知識人、大学教授、党幹部を広場に引っ張り出して吊るし上げたのでした。




 しかし、荒廃した国内の回復をはたさぬまま、1976年9月に息を引き取りました。




 文化大革命というのは、革命というよりも毛沢東を神格化し、独裁政治に都合の悪い者を大量に粛清していった人権侵害の事件なのです。




 だから毛沢東には、心を許せる家族も友人もいませんでした。

 性欲は旺盛で、若い女性の肉体を次々に求め続けましたが、愛情とは別でした。




 薬を飲ませようとすると、それを毒と思い、知らないところで人が話をしていたら裏切りだと思い、絶対的な忠誠でなければ反逆者だと思っていました。




 常に心労の連続であったことは、容易に推測できますね。




 差別意識から解放されなかったために、孤独な晩年を過ごすはめになったと考えるのは僕だけでしょうか。
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