FC2ブログ
9 蔣介石(しょうかいせき) (1887年 ~ 1975年)





~権力にすがり続け台湾からも見放された中華民国の総統~





 諸外国の侵略から、中国を守り抜いた英雄の一人といえるでしょう。

 中学校や高校の歴史の教科書や資料集にも、写真つきで登場することが多い人物です。




 孫文の辛亥革命(しんがいかくめい) に参加して、アジア初の共和国建国に貢献しました。

 孫文の死後は北伐(ほくばつ) で中華民国を統一し、日中戦争でも首都を重慶に移して戦いぬいて最後まで屈しませんでした。




 中華民国の総統にもなった人です。




 ところが、中国本土だけでなく彼が最後に居住した台湾からも、必ずしも高い評価を得ているとは言えません。




 なぜでしょうか。




 1887年、蔣介石は中国東部、江南の浙江(せっこう)省で生まれました。

 日本に留学し、孫文に出会っています。




 中国同盟会に入って、帰国後は革命運動に加わることになりました。

 特に、中国国民党の軍事指導者として頭角を現すことになります。




 ただ、中国共産党に対して、孫文は互いに協力して第一次国共合作を成し遂げましたが、蔣介石はクーデターを起こし、共産党を正面から排除しようとしました。




 上海で多くの共産党員を射殺しています。




 思想の違いもさることながら、この事件の裏で見え隠れしているのは、大地主と大資本家たちですね。




 社会主義になって一番困るのは彼らだからです。

 蔣介石は彼らの立場に立ったとも考えられます。




 1931年に始まる満州事変や、その後の日中戦争で中国は侵略をされ始めました。

 国全体のピンチです。




 それでも蔣介石は日本と戦おうとせず、あくまで中国共産党との戦いを続けたのです。

 ここにおよんで張学良(ちょうがくりょう) という人物が「西安事件」 をおこします。




 何と蔣介石を監禁したのです。




 中国共産党の周恩来も西安にかけつけて蔣介石を説得し、やっと第二次国共合作が成立しました。




 これで侵略のピンチを乗り切ることができたわけです。

 しかし日中戦争後、国民党と共産党は再び内戦状態になります。




 結果は共産党が勝ち「中華人民共和国」 が成立しました。

 敗れた蔣介石は台湾に逃れて、あくまで「中華民国」 として敵対を続けました。




 圧倒的な軍事力をもちながら、国民党が共産党に勝てなかったのはなぜでしょうか。




 それは、蔣介石は資本主義の名のもとに、大地主や大資本家の立場に立って、国民の大多数である農民を見下していたからではないでしょうか。




 その背景に差別意識が見えますね。




 だから、1947年、台湾では国民党政権に対する大規模なデモや抗議運動が発生しました。

 蔣介石はこれを武力で弾圧し、無差別発砲や銃殺を繰り返したのです。




 台湾人の死者は18,000人から28,000人と推定されていますが、正確な数字はいまだに不明のままです。



 この事件は2月28日から始まったので、台湾の歴史上「2・28事件」 と呼ばれています。




 蔣介石はあくまでも共産党を攻撃し、中国全土の実権を取り戻そうとしたので、一般民衆の声に耳を傾けないほどかたくなになっていたのでしょうか。




 諸外国の説得にも応じませんでした。




 戦勝国として国際連合、安全保障理事会の常任理事国となった中華民国は、経済が発展し生活水準も向上しはじめました。




 しかし、国際連合が「中華人民共和国」 を中国の代表として承認すると、蔣介石は激怒します。

 アメリカや日本の説得も無視して国連を自ら脱退し、西側諸国との国交断絶を招いたのです。




 国際的に孤立したまま、蔣介石はこの台湾で亡くなりました。

 この間の蔣介石の心労は、どれほどのものだったでしょうか。




 権力を一般民衆のために行使しなければ、支持を失います。




 彼が差別意識からもう少し解放されていれば、中国本土からも台湾からも支持者が増え、40年以上もの「戒厳令」 など必要にならなかったのではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/204-a7992615