3 レーニン (1870年 ~ 1924年)





~革命の緊張と重責で悩み続けたソ連の建国者~





 「戦争をすぐにやめよう」

 説得力のある言葉ですね。




 ここでいう戦争とは、第一次世界大戦のことです。




 「ロシア革命の父」 として、世界初の社会主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦」 を建国しました。




 世界史上、大きな足跡を残した人物です。





 帝政ロシア時代の皇帝の専制政治に終止符を打ち、労働者による政府を樹立して、国民のための国家を作り上げました。




 しかし、レーニンは建国後わずか2年で発作をおこして死亡し、現在はソ連そのものが崩壊して消滅し、この革命をプラスに評価する人は少数になっています。





 なぜなのでしょうか。





 「ソビエト政府は地主から土地を取り上げ、これを農民に分配する。

 革命は革命家だけでできるものではない。




 労働者や農民、兵士が団結して初めて成功するのだ」

 多くの国民の支持を得たことは言うまでもありません。





 1917年、三月革命で皇帝ニコライ2世を倒し、戦争を継続していたケレンスキー首相の臨時政府に対し、レーニンは十一月革命をおこします。




 革命は見事に成功して、第一次世界大戦からもいち早く手を引きました。

 しかし、レーニンの正念場はここからでした。




 諸外国が、革命をつぶしに来たのです。

 「干渉戦争」 ですね。




 ちなみに当時の日本は「シベリア出兵」 という形で、干渉戦争に積極的に参加しています。

 レーニンを党首とするボリシェビキ(共産党) は、これを退けて革命を守りました。




 ところが、1918年の憲法制定会議では、社会革命党に第一党を奪われたため、武力で議会を解散し、ボリシェビキによるプロレタリア独裁を開始していたのです。




 これは、どう考えても民主的とは考えられませんね。

 彼が権力と心労に揺れるのはここからでした。




 もともと性格的に興奮しやすく、決して図太い神経の持ち主ではありませんでした。




 マルクス主義を発展させ、レーニン主義として体系づけることはできても、理論と現実は大きな違いがあったようです。




 数十年前のことですが、僕の知り合いのある女性から、こんな話を聞きました。

 彼女の大学生になる娘さんが、あこがれのソ連旅行から帰った時の感想は、痛烈なものでした。




 「あのような貧しい国には、二度と旅行したくありません」

 この発言の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 十一月革命が成功してからは、レーニンの生活は一変します。

 彼の過敏な神経は、国家運営という重責に耐えられるものではありませんでした。




 緊張は一時も解けることはなく、ささいなもめごとまで処理しなければなりません。

 後継者候補の一人だったスターリンとの関係にも、頭を悩ましていました。




 レーニンは、スターリンには危険を感じていました。

 恐るべき独裁者になるかもしれない、という予感です。




 体調不良の自覚症状も出てきました。




 絶え間ない頭痛と、ときに不自由になる手足に、「私は寝たきりになるかもしれない」 と不安を抱きました。




 一説には青酸カリを入手して、自殺を試みようとしたとも伝えられています。

 1922年には、最初の脳卒中の発作をおこしました。




 これ以後、レーニンの神経過敏さは度を増し、発作を繰り返すようになったのです。

 でも、ソ連は自分が中心になって、命をかけて作り上げた国です。




 不十分ながら、たびたび休暇を取りながらも、レーニンは決して逃げませんでした。

1924年1月、ついに最後の発作をおこして死亡しました。




 ソ連建国後、わずか2年。




 これでは、レーニンは強い心労で自分の命を縮めるために革命をおこしたようなものですね。




 民衆のための国づくりが、いつのまにかボリシェビキのための国づくりになっていたのではないでしょうか。




 あと少しの解放感があったならば、と考えるのは僕だけでしょうか。
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