9 李鴻章(りこうしょう) (1823年 ~ 1901年)






~外交の心労で寿命を縮めた清の大臣~






 西洋の良いところを取り入れて、中国の近代化を推し進めた清朝末期の実力者です。




 「洋務運動」 と呼ばれる、鉱山開発や鉄道の敷設、近代海軍、官営軍需工場の設立などに尽力しました。




 半植民地化が進む中国を改革して立ち直り、安定した一時期をもたらしたので、この時期は後に「同治の中興」 と呼ばれました。





 作家の司馬遼太郎さんは「当時の世界で有数の政治家」 とまで評価しています。




 また、浅田次郎さんは小説の中で「清国の末期を支えるために孤軍奮闘した偉人」 と描いています。




 しかし、李鴻章は亡くなる一時間前まで仕事をしていたのです。




 「仕事をしながら死んだ」 といっても過言でない状態でした。




 いったい、彼の身に何があったのでしょうか。





 1823年、李鴻章は南京の西方にある安徽省(あんきしょう) の合肥(ホーフェイ) という町に生まれました。




 25歳で難関試験と言われる科挙(かきょ) に上位で合格したエリートです。





 彼が配属された部署は、皇帝の詔勅を作成する特に優秀な学者が勤務する官庁でした。

 以後、25年にわたって清朝最高の実力者としての地位を保ち続けたのです。




 諸外国も、皇帝よりも李鴻章のほうこそ清帝国の真の支配者、と見なしていたくらいです。

 しかし不運にも、彼の在任中は国難の連続でした。




 まず「太平天国」 です。




 1851年に始まったこの国内戦争で、太平天国軍の北京進出を食い止めたのは、曾国藩(そうこくはん) と李鴻章です。




 1864年には、彼の組織した淮軍(わいぐん) が太平天国を滅ぼしました。





 皇帝の立場から見れば大きな手柄になりますが、国民の多くはすでに清王朝を見放していたことも事実です。




 それが後に表面化したのが、孫文で有名な辛亥革命(しんがいかくめい) ですね。

 1884年には、フランスとの間に清仏戦争(しんふつせんそう) が起こります。





 清はこの戦争で敗れ、フランスと戦後の講和条約を結んだ時の清国代表は李鴻章でした。

 この交渉の結果、それまで清の領土であった越南(現在のベトナム) を失うことになりました。





 国の代表として交渉に参加した彼の心労は相当なものだったでしょう。

 さらに、10年後の1894年、日清戦争が起こります。





 日本にも敗れた清国の全権大使は、またしても李鴻章でした。

 日本の山口県下関で下関条約が結ばれました。





 「清国は朝鮮半島から兵を引き、台湾と遼東半島をゆずります」

 それに、3億円以上の多額の賠償金を支払うという屈辱的な内容になりました。





 日本全権の伊藤博文の嬉しそうな顔が目に見えるようですね。

 あげくの果てに、李鴻章は何者かに顔面を銃撃されました。





 命はとりとめましたが、心身とも踏んだり蹴ったりであったことは想像に難くありません。

 72歳の高齢で、それでも粘り強く交渉に臨みました。





 極めつけは、1900年に起こった「義和団事件」 です。

 日本軍を主力とする8か国連合軍にまたしても敗れ、「北京議定書」 を結ぶことになりました。





 ここでも彼は清国代表として交渉に当たっています。

 5億円の賠償金を支払い、北京などに外国軍がとどまることを許すという内容でした。





 もう、誇りもプライドもズタズタですね。





 このころから、李鴻章は心労から情緒不安定になり、精神錯乱したようにどなり散らすようになりました。




 特にロシアとの交渉は難航し、何と死の1時間前にも、ロシア公使が条約調印の催促に李鴻章のもとを訪れています。




 結局、後任に袁世凱(えんせいがい) を指名して亡くなりました。





 清のこの一連の戦争は、いったい誰のためのものだったのでしょうか。





 国民の声に耳を傾け、国民の立場に立って行動すれば、この強い心労から解放されていたかもしれませんね。
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