7 フリードリヒ・ヴィーク (1785年 ~ 1873年)






~名誉と富で家族から見放されたドイツの音楽教師~






 大作曲家、シューマンの妻の父親です。

 ドイツのライプチヒで、一番の音楽教師と言われました。




 シューマンやその妻クララのピアノの先生であり、強い信念と強烈な個性をもった優れた教育者でした。




 ヴィークの練習曲集は今でも出版され、機械的な技術の習得だけでなく、情操と感受性を育てることを常に主張していました。




 同じ時代を生きた大作曲家、メンデルスゾーンが創立したライプチヒ音楽院に、ピアノの教授として就任を打診されたこともあったほどです。





 娘のクララも世界的なピアニストになることができたのは、父のおかげと感謝しています。





 しかし、ヴィークは音楽的にはすばらしい成果をあげましたが、家庭的には幸福になれたとは僕には思えないのです。





 なぜでしょうか。





 1785年、フリードリヒ・ヴィークはドイツのザクセンアンハルト州ヴィッテンベルク近郊で生まれました。




 若いころは神学を学んでいましたが、ピアノのために音楽に夢中になり熱中して、後にピアノ工場と楽譜出版社を創立したほどです。





 彼の妻マリアンネもピアニストであり、声楽家でもありました。

 音楽という共通の芸術で結ばれた、楽しい理想的な夫婦を想像してしまいそうですね。





 ところが、実際にはそうではなかったのです。

 1819年、娘のクララが生まれたときのヴィークの言葉です。





 「この子は一流のピアニストに育てあげるのだ。

 音楽の世界で有名になれば、たくさんの金が手に入るし、大金持ちの貴族とだって結婚できる」





 この言葉には、ヴィークの価値観が凝縮されていますね。

 1823年、クララが4歳になると、それはハードなピアノのレッスンが始まりました。





 母親であるマリアンネは、ことごとく娘の育て方について対立しました。

 「そんなにいやなら出ていくがいい」





 翌年、クララがまだ5歳のときです。

 ついにマリアンネは、娘を残したまま家を追い出されました。





 そして、二度と戻ることはありませんでした。





 夫の側から見れば、追い出したのでしょうが、妻の側から見れば、何を言っても無駄な夫を見放したのでしょう。




 1837年、18歳になったクララは、父ヴィークの弟子の一人で、恋愛関係にあったシューマンと結婚の約束をします。




 このことを知ったヴィークは、烈火のごとく猛反対しました。




 「私が自分の人生の10年を犠牲にして、クララを一流のピアニストに育てたのは、あんなシューマンのような貧乏音楽家にくれてやるためではない。




 ピストルで撃ち殺してやる」



 何か、勘違いをしていますね。




 これは明らかに、差別者の言葉です。

 さらに、ヴィークの人権感覚が欠如した発言が続きます。




 「シューマン、今後いっさい娘と会うことは許さん」




 「クララ、もうお前をわしの娘とは認めん。

 財産も一文だって分けてやらん」




 若い男女の誠心誠意の説得にも頑強に応じず、ついに裁判になってしまいました。

 でも、結果は火を見るより明らかです。




 1940年、2人はライプチヒの教会で結婚し、裁判に負けた父はドレスデンに移り住みました。



 結婚式の出席者は、追い出されたはずの実母のマリアンネと、二人の共通の友人であるベッカー夫妻でした。




 もちろん、父ヴィークの姿はありませんでした。

 このできごとは、差別はする方が不幸になる典型的な事例ではないでしょうか。




 愛する娘の結婚を祝いたいというのは、世の多くの父親たちの本音でしょう。




 結局、フリードリヒ・ヴィークは妻から見放され、娘からも見放され、そしてその夫からも見放されたのです。




 自分の子どもと裁判で争いたい、という親はいないと思います。




 親として、自分の子どものために本当に大切なことは何か。




 とても考えさせられる世界史上のできごとですね。
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