6 ゾフィー大公妃 (1805年 ~ 1872年)






~権威と息子たちとの狭間で揺れたオーストリア皇帝の母~
 





 ハプスブルク家は、ヨーロッパの名門中の名門として有名です。




 歴史上数多くの皇帝や国王、皇妃や王妃を次々に出し、何か国にもまたがる広大な領地をものにしていました。




 なぜこのような名家になれたのかご存知でしょうか。

 それは「政略結婚」 です。




 ハプスブルク家にとって、政略結婚は何代にもわたる得意技だったのです。




 しかし、華やかに見える宮廷生活の裏には、人間の自由を無視した人権侵害や、悲劇もたくさん起こっていたことも事実です。




 ゾフィーは、現在の南ドイツにあったバイエルン王国の貴族、ヴィステルバッハ家に生まれました。



 彼女もまた政略結婚により、オーストリア帝国の皇帝の弟にあたる大公のもとに嫁ぎました。




 由緒ある名門ハプスブルク家です。

 皇室のしきたりや礼儀作法などをしっかり身につけて、大公妃として君臨していたのです。




 ところが1848年、ゾフィーの長男が18歳でオーストリア帝国の皇帝に即位したのです。

 フランツ・ヨーゼフ1世の誕生ですね。




 このことは、同時にゾフィーが皇帝の母親になったということでもあります。

 つまり、ウィーンの宮廷における絶対的な権力者にのし上がったことを意味するのです。




 彼女は大いに喜び、張り切ったことでしょう。




 この後は、上から目線で周りの人々を見下し、自分の思い通りにしようしたと考えられる行為が、次々に表面化していきます。




 何といっても息子のフランツ・ヨーゼフ1世はまじめを絵にかいたような性格で、母親に逆らったことがなかったのです。




 まず、息子の結婚です。




 ゾフィーは、自分の実家ヴィステルバッハ家の長女ヘレーネをフランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にしようとして、引きあわせました。




 今でいう「お見合い」 ですね。




 ところが、ゾフィーの思いもよらぬことが起こります。




 息子の皇帝はヘレーネに全く興味を示さず、何とその妹のシシィに熱々になってしまったのです。



 猛反対しましたが、フランツはこのとき初めて母親に逆らいます。




 「私の結婚は皇帝である私が決めます。

  大公妃殿下は口出し無用!」




 こうして、妹のシシィとの結婚を成立させました。

 皇妃エリザベートの誕生です。




 1854年、フランツ・ヨーゼフ1世は23歳、エリザベートは16歳でした。

 おさまらないのは、母親のゾフィーです。




 エリザベートはヨーロッパ1の美貌と噂される女性でしたが、自由奔放な性格で、ハプスブルク家の伝統的なしきたりにはなかなかなじめませんでした。




 ゾフィーの憎悪は、エリザベートに向けられたのです。




 言葉遣いや歩き方、お辞儀の仕方、箸の上げ下ろしまで日常生活の細部に干渉して、少しでも違反すれば厳しく叱責しました。




 生まれた赤ん坊まで取り上げて、勝手に自分と同じゾフィーと名付けました。

 これはやりすぎでしょう。




 当然のことながら、耐えきれなくなったエリザベートからもゾフィーは逆らわれます。

 極めつけは、次男のマクシミリアンです。




 フランスのナポレオン3世に誘われて、メキシコの皇帝になろうとしたのです。




 ゾフィーは、このマクシミリアンを幼い時から溺愛していて、彼のメキシコ行きにも猛反対しました。




 マクシミリアンは母親の反対を押し切って、メキシコへ旅立ったのです。




 しかし、やはり恐れていた悲劇は起こりました。




 皇帝になったマクシミリアンは、メキシコで銃殺され、その遺体がオーストリアへ返されてきたのです。




 その後、ゾフィーは人が変わったように陰鬱になり、わずか2年後に愛息の後を追うように亡くなりました。





 皇帝の母という地位を手に入れても、思うようにならないことばかりですね。





 高い地位と強い権力に恵まれても、何とももったいない人生だと感ずるのは、僕だけでしょうか。





 彼女が差別意識からもう少し解放されていたならば、もっと豊かな人生を送ることができたのではないでしょうか。
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