4 咸豊帝(かんぽうてい) (1831年 ~ 1861年)





~内憂外患のストレスから若死にした清朝末期の皇帝~





 僕が北京の故宮(こきゅう) に行ったとき、度肝を抜かされました。

 その壮大さが、予想をはるかに超えていたからです。




 数々の大きな建物が次々と現れ、まるで一つの城が一つの町のようになっていました。

 中国の清(しん) 王朝の時代、ここは紫禁城(しきんじょう) と呼ばれる宮殿だったのです。




 現在の中華人民共和国よりも、もっと広大な領土をもっていた清王朝。

 咸豊帝(かんぽうてい) は清の第9代皇帝で、この宮殿で生まれ、この宮殿で育ちました。




 絶対的な権力をもっていましたが、彼はわずか30歳の若さで亡くなっています。




 なぜでしょうか。




 若い19歳の咸豊帝が、皇帝として即位したのは1850年です。

 僕たちの日本では、幕末にあたります。




 当時の中国は、すでにアヘン戦争でイギリスに敗れ、列強諸国のアジア侵略が始まっている多難な時代でした。




 ちまたには失業者、病人、アヘン中毒者などがあふれ、それに追い打ちをかけるように全国的な大飢饉にまで見舞われました。





 彼が即位した翌年、「太平天国の乱」 が起こり、咸豊帝の生存中、清はこれをどうすることもできませんでした。




 教科書や多くの歴史書では「乱」 という言葉を使っています。




 中には「太平天国の革命」 とする本もあります。





 しかし、僕は中国国民の9割以上を占める漢民族の人々の立場に立てば、「解放戦争」 と呼ぶのがよいと思います。




 清は少数の満州民族が、大多数の漢民族を差別して支配していた王朝で、太平天国はこの清の支配から離れ、再び漢民族の国を作ろうとしていたできごとだったからです。





 一時的ではありますが、南京を中心に一種の独立国のようになりました。

 咸豊帝は、ついに亡くなるまでこの太平天国を従わせることができませんでした。





 これ一つだけとってみても、皇帝のプライドは傷つけられ、大きな心労だったと考えられますね。




 彼の悩みの種は、宮殿内にもありました。



 妻の一人である蘭児(らんじ) です。




 彼女こそ後に西太后と呼ばれる女性で、中国史上の三大悪女の一人とまで言われ、数々の残虐な行為で知られる人物です。




 咸豊帝は、フランスのベルサイユ宮殿とも比較された、豪華で華麗な離宮である円明園(えんめいえん) で蘭児の美しい歌声と容姿に引き寄せられました。





 これがきっかけで、すでに皇后はいましたが、側室として迎えたのです。

 しかし、蘭児には権力への野心と計算があって、皇帝に近づいたことも事実です。




 慎ましい皇后とは対称的に、蘭児は自分の欲望に忠実で、自由奔放な性格でした。

 そんな彼女に、新鮮な魅力を感じたのでしょう。




 間もなく彼女は皇太子(後の同治帝) を産み、貴妃という高い位を授けられました。

 同時に権力をかさにきて、政治にも口出しすることが多くなったのです。




 咸豊帝もさすがに持て余し、部下に漏らすようになりました。




 「この女は何を考えているのか、よくわからない。

  満足するということを知らない。




  何か不気味で危険を感じる」


 

 一時は部下の進言に従って、蘭児を殺そうとまで考えたこともあるほどです。



 極めつけは1856年に起こったアロー戦争です。




 英仏連合軍に攻められた咸豊帝は、北京の北東にある熱河(ねっか) の離宮に逃げたのです。



 国民の声が聞こえてきそうですね。





 「残された私たちは、どうなるのだ」





 結局さらに領土を奪い取られ、屈辱的な条約を結ばざるをえませんでした。

 誇りもプライドもズタズタにされた咸豊帝は、その熱河の離宮で亡くなりました。





 権力を最後まで離さなかったことが、若死ににつながったのではないかと僕は思います。





 国際理解、国際協調という選択肢と方策は考えられなかったのでしょうか。





 彼が差別意識から解放されていれば、もう少し健康で長生きをすることができたかも知れませんね。
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