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2017.04.20
第6章 19世紀の百年間 2 アレクサンドル1世
2 アレクサンドル1世 (1777年 ~ 1825年)
~望まぬ地位と重圧に押しつぶされたロシア皇帝~
ナポレオンを敗走させたときのツァーリ(皇帝) として知られる人物です。
モスクワに攻め込もうとしているナポレオンのフランス軍に対し町を焼き払い、市民と食料もあらかじめ移動させておいたので、この町は空っぽの状態でした。
飢えとロシアの厳しい寒さで撤退するフランス軍に一撃をくらわせ、ナポレオン没落の第一歩を作ったのです。
この焦土作戦はアレクサンドルの部下がやっとことですが、「冬将軍」 という言葉はここから生まれました。
1777年、アレクサンドルはサンクトペテルブルクで生まれています。
有名な女帝、エカチェリーナ2世の孫です。
しかし、父親のパーヴェル1世は暗殺で亡くなり、祖父のピョートル3世の不審な死も、暗殺説が根強く残っています。
この状態で皇帝に即位して、自分の将来に不安を感じない人間はめったにいないでしょう。
部下や国民に信頼されなければ、「自分の命がどうなるか知れたものではない」 と思うのはごく自然なことと考えられますね。
事実、彼はすでに少年時代に、友人コチュベーイに告白しています。
「私は皇帝にふさわしい人間ではない。
帝位を放棄してライン河畔に移り住み、一私人として平和に暮らしたい」
また、48歳のときには、弟ニコライの義兄であるヴィルヘルム公に、次のように話しました。
「私は自分自身を知りすぎている。
50歳になったら帝位を捨てる。
2年後にこの広大なロシア帝国を治めるだけの精神的、肉体的活力が残っているとは、とうてい思えない」
実際には50歳どころか、この年48歳で原因不明の病で死んでいます。
彼は皇帝として、対外的にはかなりの権力を発揮しています。
ナポレオンの支配を退けただけでなく、ポーランドを支配し、フィンランドやアラスカも領土として獲得しています。
1914年のウィーン会議では、愛嬌と社交性のある華麗な立ち居振る舞いがひときわ目立ち、中心的な存在として注目されました。
あくる年の1915年には、アレクサンドル1世の提唱で「神聖同盟」 が成立しました。
ロシアのほかに、プロイセンやオーストリアが参加し、その後ヨーロッパの君主国が次々に加盟していきました。
国王や皇帝の権力を強める、反動的な同盟です。
国民の側から見れば、あまりありがたい同盟ではないですね。
しかし、アレクサンドルは皇帝の地位を強く望んでいたものでないことは明らかです。
むしろ、不安と心労が常につきまとい、権力の裏でいつもびくびくしていたのではないでしょうか。
裏表が相当違っていたのかも知れません。
ロシアには頑固な貴族も多くいました。
フランスの皇帝になったあのナポレオンは、アレクサンドル1世のことを、こう評価しました。
「彼は魅力的だが、信頼できない。
真心がない。抜け目なく、偽善的で狡猾(こうかつ) である」
1825年、高熱と吐き気に悩まされ、健康状態が悪化してきた彼は、逃げるように休養の地として選んだ南方にある別荘に行きました。
場所はアゾフ海に面したタガンロクで、黒海や地中海につながる、ロシア帝国では最も南に位置するところです。
ところが別荘に着くなり、床について起き上がれなくなったのです。
医師は一応マラリアと診断し
「回復の見込みなし」
皇后エリザベータに、こう伝えました。
たとえそうであったとしても、長年のストレスと心労が大きく関与していることは否定できないでしょう。
同年12月、ついにアレクサンドルの意識は回復しないまま、この世を去りました。
アレクサンドルは、死ぬために皇帝になったのでしょうか。
もっと早く退位して、解放された生活を送っていればどうだったでしょうか。
ロシアにとって、歴史に残る功績はありました。
しかし本人としては、権力よりももっと 「自分らしく生きたかった」 というのが本音だと考えるのは僕だけでしょうか。
~望まぬ地位と重圧に押しつぶされたロシア皇帝~
ナポレオンを敗走させたときのツァーリ(皇帝) として知られる人物です。
モスクワに攻め込もうとしているナポレオンのフランス軍に対し町を焼き払い、市民と食料もあらかじめ移動させておいたので、この町は空っぽの状態でした。
飢えとロシアの厳しい寒さで撤退するフランス軍に一撃をくらわせ、ナポレオン没落の第一歩を作ったのです。
この焦土作戦はアレクサンドルの部下がやっとことですが、「冬将軍」 という言葉はここから生まれました。
1777年、アレクサンドルはサンクトペテルブルクで生まれています。
有名な女帝、エカチェリーナ2世の孫です。
しかし、父親のパーヴェル1世は暗殺で亡くなり、祖父のピョートル3世の不審な死も、暗殺説が根強く残っています。
この状態で皇帝に即位して、自分の将来に不安を感じない人間はめったにいないでしょう。
部下や国民に信頼されなければ、「自分の命がどうなるか知れたものではない」 と思うのはごく自然なことと考えられますね。
事実、彼はすでに少年時代に、友人コチュベーイに告白しています。
「私は皇帝にふさわしい人間ではない。
帝位を放棄してライン河畔に移り住み、一私人として平和に暮らしたい」
また、48歳のときには、弟ニコライの義兄であるヴィルヘルム公に、次のように話しました。
「私は自分自身を知りすぎている。
50歳になったら帝位を捨てる。
2年後にこの広大なロシア帝国を治めるだけの精神的、肉体的活力が残っているとは、とうてい思えない」
実際には50歳どころか、この年48歳で原因不明の病で死んでいます。
彼は皇帝として、対外的にはかなりの権力を発揮しています。
ナポレオンの支配を退けただけでなく、ポーランドを支配し、フィンランドやアラスカも領土として獲得しています。
1914年のウィーン会議では、愛嬌と社交性のある華麗な立ち居振る舞いがひときわ目立ち、中心的な存在として注目されました。
あくる年の1915年には、アレクサンドル1世の提唱で「神聖同盟」 が成立しました。
ロシアのほかに、プロイセンやオーストリアが参加し、その後ヨーロッパの君主国が次々に加盟していきました。
国王や皇帝の権力を強める、反動的な同盟です。
国民の側から見れば、あまりありがたい同盟ではないですね。
しかし、アレクサンドルは皇帝の地位を強く望んでいたものでないことは明らかです。
むしろ、不安と心労が常につきまとい、権力の裏でいつもびくびくしていたのではないでしょうか。
裏表が相当違っていたのかも知れません。
ロシアには頑固な貴族も多くいました。
フランスの皇帝になったあのナポレオンは、アレクサンドル1世のことを、こう評価しました。
「彼は魅力的だが、信頼できない。
真心がない。抜け目なく、偽善的で狡猾(こうかつ) である」
1825年、高熱と吐き気に悩まされ、健康状態が悪化してきた彼は、逃げるように休養の地として選んだ南方にある別荘に行きました。
場所はアゾフ海に面したタガンロクで、黒海や地中海につながる、ロシア帝国では最も南に位置するところです。
ところが別荘に着くなり、床について起き上がれなくなったのです。
医師は一応マラリアと診断し
「回復の見込みなし」
皇后エリザベータに、こう伝えました。
たとえそうであったとしても、長年のストレスと心労が大きく関与していることは否定できないでしょう。
同年12月、ついにアレクサンドルの意識は回復しないまま、この世を去りました。
アレクサンドルは、死ぬために皇帝になったのでしょうか。
もっと早く退位して、解放された生活を送っていればどうだったでしょうか。
ロシアにとって、歴史に残る功績はありました。
しかし本人としては、権力よりももっと 「自分らしく生きたかった」 というのが本音だと考えるのは僕だけでしょうか。
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