1 ナポレオン (1769年 ~ 1821年)






~コンプレックスと権力の狭間で揺れたヨーロッパの帝王~






 「わが辞書に不可能の文字はない」 と言ったとか、言わないとか。

 世界史上、燦然(さんぜん) と輝く英雄の代表のような人気者です。





 白馬にまたがり、右手を高く掲げて、雪のアルプスをまっしぐらに越え、イタリアに攻め込んだ勇敢なナポレオンの姿は、世界中で知られていますね。





 しかし、実際にはロバに乗っていたそうですが。

 彼自身はこう発言しています。





 「後世私が評価されるとしたら、多くの戦勝ではなく、この法典によるのだろう」

 この法典とは、「ナポレオン法典」 のことです。





 「万人の法の前の平等」

 「国家の世俗性」




 「信教の自由」

 「経済活動の自由」




 など近代的な基本的人権が取り入れられており、日本の民法の編纂の参考にもされました。




 僕もナポレオンの最大の功績は、フランス革命の成果である基本的人権の価値観を、ヨーロッパじゅうに広げたことにあるのではないかと考えています。




 立場にもよりけりですが、彼の生き方には、功罪両面からの意見が多数あるのも事実です。

 ナポレオンはフランス人だと思われている方が多いでしょうが、正確には少し違います。




 彼は、地中海に浮かぶコルシカ島の生まれです。

 日本でいえば、広島県と同じくらいの面積をもつ島で生まれました。




 イタリア語に近いコルシカ語を話し、意外にも最初はフランス語が話せませんでした。

 ジェノバに400年も支配され、コルシカは独立戦争を何回もやっています。




 「俺たちを奴隷のように扱いやがって・・・」

 コルシカ人は、自主独立の気運が高く、ナポレオンの夢は、「独立」 でした。




 ナポレオンが生まれた時は、何とジェノバが勝手にコルシカ島をフランスに売り渡していたのです。



 だから島全体が、彼が生まれた時から、すでに被差別の立場にありました。




 少年時代から、自立へのハングリー精神が旺盛だったと考えられます。




 1778年、彼が9歳のとき、フランスのブリエンヌ陸軍幼年学校、15歳でパリの陸軍士官学校に入学しました。




 何とかフランス語は覚えましたが、コルシカなまりがぬけなかったために、クラスメートから「いじめ」 に遭っています。




 差別的な扱いをされましたが、たくましく乗り越えて実力をつけていきました。



 ところが、思わぬことが起こります。




 フランスと協力して、コルシカの自治的な独立を目指すナポレオンの考えは、故郷コルシカの人々に受け入られませんでした。




 何と家族もろとも、愛するコルシカ島を追い出されてしまったのです。




 しかし1795年、26歳のときに、フランスの国内最高司令官になり、30歳でクーデタを起こして権力をものにしたのです。




 その後の軍事的活躍はめざましいものがあり、フランス革命後の諸外国との戦いで連戦連勝し、一時はイギリスを除くヨーロッパ全体をほぼ支配下におさめる絶頂期を迎えました。




 ついに1804年、皇帝に就任したのです。




 まさに、ヨーロッパの帝王ですね。




 ところが、40歳のときに、子どもが生まれない妻ジョゼフィーネと離婚し、翌年に再婚しています。




 お相手はオーストリア皇女、マリー・ルイーズです。

 この再婚は、家柄にコンプレックスをもつナポレオンの下心が見え見えですね。




 僕は、ナポレオンは自由を求めた人であると同時に、差別者でもあったと思います。

 結局、2年後のロシア遠征失敗を機に、一気に没落していきます。




 最後は大西洋の孤島、セントヘレナに流され、そこで亡くなりました。




 妹の度重なる非行もあり、形と見栄えを重視するナポレオンの心労は相当なものだったことでしょう。




 よく右手を服の中にねじ込んでいましたが、これは痛む胃を撫ででいたと言われています。



 最後の島流しまでついて行った肉親は、その非行で知られる妹一人だけだったのです。




 これはいったい、何を物語っているのでしょうか。
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