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2017.04.06
第5章 近世中期(17~18世紀) 12 ジョージ3世
12 ジョージ3世 (1738年 ~ 1820年)
~多難な政局と私生活に発狂して廃人になったイギリス国王~
イギリスをこよなく愛し、自ら「愛国王」 と呼び、王権の強化を図った国王です。
ハノーバー朝第3代目の国王で、有名なヴィクトリア女王の祖父にあたる人物でもありました。
アメリカ大陸でのフランスとの植民地争いに勝利し、広大な土地を支配下に収めています。
学問の振興に力を尽くし、芸術にも理解が深く、ダンディの始祖といわれるブランメルを認めて、一種の芸術サロンも開きました。
しかし、このジョージ3世は最終的には発狂して、生涯回復することはありませんでした。
いったい、彼の身の何が起こったのでしょうか。
基本的には、幼少のときからの社会経験不足があったのではないかと思います。
母親は、彼を俗事一切から隔絶した教育を施していました。
身内には強いが外には弱い、いわゆる内弁慶ですね。
生来、神経過敏な性格をもっており、22歳で国王として即位したときには、「人を動かす力」が欠如していたと考えられます。
当時のイギリスにはピットをはじめ、優れた政治家がたくさんいて、国王の意思はなかなか思うようにならなかったのです。
このような中で、イギリスにとっては大事件が起こります。
「アメリカ独立戦争」 ですね。
1773年のボストン茶会事件を皮切りに、植民地アメリカとの戦争が始まったのです。
「ボストンでは、イギリスの許可なく集会や選挙をやらせるな」
ジョージ3世が、アメリカを見下しているのがよくわかる言葉ですね。
明らかな差別者の発言です。
あくまでも植民地として、アメリカを支配し続けようとしていたのです。
しかし、イギリス軍は予想外にも敗れてしまいました。
「うそだ、そんなばかな。
世界がひっくりかえらない限り、世界最強のイギリス軍が負けるなどあるわけがない」
信じられない敗戦に、激しい動揺を隠すことができませんでした。
誇り高きプライドをズタズタにされ、ジョージ3世の心労は極度に達したことでしょう。
1776年、植民地は高らかに独立宣言をかかげ、本国イギリスから自立しました。
「アメリカ合衆国」 の誕生です。
初代大統領は、かの有名なジョージ・ワシントンですね。
政治の難局は、次々に訪れます。
1789年、フランス革命が勃発しました。
この大革命のさなか、フランスの国王ルイ16世がギロチンで処刑されるという大事件が起こったのです。
隣国の同じ立場である国王としては、この事態を黙って見ているわけにはいかないという気持ちはわかるような気がします。
またしても戦争です。
そしてその後は、ナポレオンとの全面戦争に発展します。
イギリス国王としては、気が休まる暇もないですね。
同じころ1788年、放蕩な皇太子(後のジョージ4世) の相次ぐスキャンダルに心を痛めていたジョージ3世は、精神に錯乱をきたして倒れていたのです。
皇太子の借金は、どうしようもない膨大なものになっていました。
1810年には、不幸にも最愛の娘を失いました。
ここに及んで、ついにジョージ3世は発狂してしまいました。
この事態にイギリス議会は翌年、次のような判断を下します。
「陛下の病に回復の見込みなし」
皇太子を摂政に据えました。
その後10年間、ついに最後までジョージ3世の精神はよみがえることがありませんでした。
88歳という長寿でしたが、幸福に生きた国王と考えるには無理がありそうですね。
性格と実力に不相応な重責と、権力・心労に振り回された一生だったのではないでしょうか。
人間を大切にする人権感覚と、差別意識からの解放がもう少しあれば、発狂した廃人になるのを防ぐことができたかもしれない、と考えるのは僕だけでしょうか。
~多難な政局と私生活に発狂して廃人になったイギリス国王~
イギリスをこよなく愛し、自ら「愛国王」 と呼び、王権の強化を図った国王です。
ハノーバー朝第3代目の国王で、有名なヴィクトリア女王の祖父にあたる人物でもありました。
アメリカ大陸でのフランスとの植民地争いに勝利し、広大な土地を支配下に収めています。
学問の振興に力を尽くし、芸術にも理解が深く、ダンディの始祖といわれるブランメルを認めて、一種の芸術サロンも開きました。
しかし、このジョージ3世は最終的には発狂して、生涯回復することはありませんでした。
いったい、彼の身の何が起こったのでしょうか。
基本的には、幼少のときからの社会経験不足があったのではないかと思います。
母親は、彼を俗事一切から隔絶した教育を施していました。
身内には強いが外には弱い、いわゆる内弁慶ですね。
生来、神経過敏な性格をもっており、22歳で国王として即位したときには、「人を動かす力」が欠如していたと考えられます。
当時のイギリスにはピットをはじめ、優れた政治家がたくさんいて、国王の意思はなかなか思うようにならなかったのです。
このような中で、イギリスにとっては大事件が起こります。
「アメリカ独立戦争」 ですね。
1773年のボストン茶会事件を皮切りに、植民地アメリカとの戦争が始まったのです。
「ボストンでは、イギリスの許可なく集会や選挙をやらせるな」
ジョージ3世が、アメリカを見下しているのがよくわかる言葉ですね。
明らかな差別者の発言です。
あくまでも植民地として、アメリカを支配し続けようとしていたのです。
しかし、イギリス軍は予想外にも敗れてしまいました。
「うそだ、そんなばかな。
世界がひっくりかえらない限り、世界最強のイギリス軍が負けるなどあるわけがない」
信じられない敗戦に、激しい動揺を隠すことができませんでした。
誇り高きプライドをズタズタにされ、ジョージ3世の心労は極度に達したことでしょう。
1776年、植民地は高らかに独立宣言をかかげ、本国イギリスから自立しました。
「アメリカ合衆国」 の誕生です。
初代大統領は、かの有名なジョージ・ワシントンですね。
政治の難局は、次々に訪れます。
1789年、フランス革命が勃発しました。
この大革命のさなか、フランスの国王ルイ16世がギロチンで処刑されるという大事件が起こったのです。
隣国の同じ立場である国王としては、この事態を黙って見ているわけにはいかないという気持ちはわかるような気がします。
またしても戦争です。
そしてその後は、ナポレオンとの全面戦争に発展します。
イギリス国王としては、気が休まる暇もないですね。
同じころ1788年、放蕩な皇太子(後のジョージ4世) の相次ぐスキャンダルに心を痛めていたジョージ3世は、精神に錯乱をきたして倒れていたのです。
皇太子の借金は、どうしようもない膨大なものになっていました。
1810年には、不幸にも最愛の娘を失いました。
ここに及んで、ついにジョージ3世は発狂してしまいました。
この事態にイギリス議会は翌年、次のような判断を下します。
「陛下の病に回復の見込みなし」
皇太子を摂政に据えました。
その後10年間、ついに最後までジョージ3世の精神はよみがえることがありませんでした。
88歳という長寿でしたが、幸福に生きた国王と考えるには無理がありそうですね。
性格と実力に不相応な重責と、権力・心労に振り回された一生だったのではないでしょうか。
人間を大切にする人権感覚と、差別意識からの解放がもう少しあれば、発狂した廃人になるのを防ぐことができたかもしれない、と考えるのは僕だけでしょうか。
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花のんの
ご無沙汰しました
またよろしくお願いします
私も身の程を知り、ふさわしい生活を送りたいと思いますw
身の丈、という言葉が身に沁みますね
またよろしくお願いします
私も身の程を知り、ふさわしい生活を送りたいと思いますw
身の丈、という言葉が身に沁みますね
2017/04/08 Sat 22:53 URL [ Edit ]
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