11 マリー・アントワネット (1755年 ~ 1793年)





~心労で白髪になり断頭台の露と消えたフランス王妃~





 華やかで豪華絢爛なベルサイユ宮殿。




 その輝くような美しさと華麗なる血統から、フランス国民から大歓迎され、ルイ王太子の妃として嫁いだファーストレディがマリー・アントワネットです。



 ルイ王太子は後のフランス国王、ルイ16世ですね。




 しかし、誰もがうらやましがるような夢のような宮廷生活は長続きせず、最後は38歳の若さで、悲しい運命の幕を閉じることになりました。



 いったい、この若くて美しいフランス王妃に何があったのでしょうか。




 1755年、マリーはオーストリアの女帝、マリア・テレジアの末娘としてウィーンで生まれました。



 王女として、何不自由のない恵まれた環境の中で、のびのびと成長することができました。




 しかし、政略結婚により、フランスに嫁ぐことになったのです。


 1770年、57台の馬車と376頭の馬、132人のお付きの者を従えてマリーはパリへ旅立ちました。




 当時14歳。

 現在の日本でいえば、中学2年生ですね。




 お相手のルイ王太子は15歳でした。



 マリーが不運だったのは、このお相手は優しいけれど、鈍感で、不器用、優柔不断の男性だったことでしょう。




 フランス革命が起こったバスティーユ監獄襲撃の日でさえ、日記に「何もなし」 と書くような性格でした。



 おまけに包茎という性的不能者だったのです。




 この状態で7年待たされたのですから、妻としては「私はいったい何なのよ」 とでも言いたくなったのでしょうか。




 現在の僕たちは、自分たちの意思で結婚相手を選ぶことができます。




 この1点だけを見ても、当時の王家はいかに基本的人権が尊重されていなかったかがよくわかります。



 マリーの兄、ヨーゼフ2世が心配し、ウィーンからパリにやってきて、ルイ16世に外科手術を勧めてやっと解決したほどです。




 寂しさをまぎらわせるために、マリーが別のことに興味をもつのもうなずけるような気がしますね。



 しかし、夜遊びに贅沢な買い物、スキャンダルなどが続発し、嫌気がさした国民の心は次第にマリーから離れて行きました。




 致命的だったのは「ヴァレンヌ逃亡事件」 です。



 フランス革命の邪魔をしようとする諸外国の味方をするため、マリーの進言で国王一家は国外へ逃亡しようとしたのです。




 しかし、国境近くの町ヴァレンヌで捕まり、パリへ強制送還されてしまいました。



 あげくの果てに、マリーは諸外国にフランスの軍事機密を漏らしていて、これが原因でフランス軍は敗れたのです。




 国民の怒りは、頂点に達しました。




 今や国王一家は、フランス国民を見放した裏切り者です。

 散々もめたあげく、1793年、夫の国王ルイ16世がギロチンで処刑されました。




 そして、その半年後、マリーもギロチンで処刑されることが決定したのです。

 その心労は、想像を絶するものだったに違いありません。




 美しかったブロンドの髪は真っ白になり、まるで老婆のようだったと言われます。




 コンシェルジュリという監獄に70日間閉じ込められたとき、日光から遮断されていた彼女の眼は赤く充血して、焼けつくように痛みました。




 唇と下半身のひどい出血で、見違えるような悲惨な姿になっていたのです。

 マリーは抵抗せずに処刑を受けました。




 うろたえることなく、気品をもったその潔い姿は、後世に長く広く伝えられています。

 この結末は、一般国民の立場に立てなかったということが最大の原因でしょう。




 あくまで王妃の立場から、国民を見下した意識がさまざまな行動に表れて、人々の反感を招いてしまったのです。




 差別意識から少しでも解放され、少しでも国民とともに生きようという意識が行動に表れれば、ギロチンによる処刑だけは防ぐことができたのではないでしょうか。
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