9 レオポルト・モーツァルト (1719年 ~ 1787年)






~富と名誉で家族の健康を犠牲にした大作曲家の父~






 あの有名な大作曲家、天才モーツァルトのお父さんです。

 レオポルトは、世界の音楽に大きく貢献した偉人と言えるでしょう。




 姉のナンネルと弟のウォルガングという二人の天才音楽家を育てあげました。

 音楽教育を目的とした、通称 「ナンネルの楽譜帳」 は、世界中で高く評価されています。




 しかし、レオポルトには7人の子どもがいましたが、成人したのは三女のナンネルと三男のウォルガングの2人だけだったということも事実なのです。




 1719年、僕たちの日本では江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の享保の改革が始まった時期にあたります。




 レオポルトは、ドイツの南部、ミュンヘンに近いアウクスブルクで、製本師の長男として生まれました。




 1737年、オーストリアのザルツブルクの大学に入学して、哲学と法律を学ぶはずでした。

 ところが、音楽の魅力にとりつかれて熱中したため、2年後に退学になってしまいました。




 親にとっては残念なことだったことかもしれませんが、後世に生きる僕たちにとっては、大作曲家モーツァルト誕生の第一歩になったともいえそうですね。




 レオポルトは作曲家、ヴァイオリニスト、音楽理論家として活躍します。

 彼の夢は、大都市の宮廷楽長になることでした。




 当時の音楽家では最高の栄誉であり、最高の地位だったのです。




 結論を先に言えば、彼は1763年に副楽長にまではなることができましたが、その後終生、楽長になることはできませんでした。




 このストレスは、幼い子どもたち2人を次々に演奏旅行に連れていき、ハードな旅行に明け暮れる原因の一つにもなったのです。




 1762年、ミュンヘンに旅立ちました。


 ナンネル11歳、ウォルガングは6歳という幼さでした。




 彼らの演奏を聴いたバイエルン選帝侯、マクシミリアン3世は絶賛しました。




 「すばらしいぞレオポルトよ、おまえはこの子たちの親だろう。

 なぜこの天才たちの演奏をもっとたくさんの人々に聴かせようとしないのか」




 (この子たちには人々を幸福にする力がある。
 



  あのバッハやヘンデルのように、世界中から愛される音楽家になれるのか。

  ならば、どんな手を尽くしてでもやらなければならない)




 レオポルトはこう考え、あとはまっしぐらです。




 ウィーン、ミュンヘン、パリ、ロンドン、オランダ、イタリアなど、過酷な演奏旅行を次々と行いました。




 特にロンドンでは公開演奏会を覚え、大きな収入を手にすることができました。




 しかし、途中でナンネルが倒れ、ウォルガングも結節性紅斑(けっせつせいこうはん) や天然痘などで何回も倒れました。




 レオポルト自身も、別の病で倒れています。




 こうなるとさすがに妻のアンナは、健康のことを考えて無理な演奏旅行を控えるように夫に進言しました。





 しかし、夫のレオポルトは聞く耳をもちません。

 それどころか、妻に暴力をふるって従わせたのでした。





 ウォルガングの結婚にも、猛反対しました。

 「天才の息子には名家の嫁を」 という考えだったからです。





 激しい剣幕で、執拗に手紙で息子を説き伏せようとしましたが無駄でした。

 地位と名誉を重んじる生き方ですね。





 背景に差別意識が横たわっていることは明白です。

 極めつけは、妻アンナが演奏旅行中のパリで病死してしまったことでしょう。





 ウォルガングも、死因は諸説ありますが、レオポルトの死から3年後、わずか35歳の若さで亡くなっています。





 僕もモーツァルトの美しい音楽を愛するファンの一人です。





 しかし家族の立場に立てば、父親があとわずかでも健康に注意してもよかったと考えられます。





 レオポルトが差別意識から少しでも解放されていれば、もっと豊かな人生を送ることができたのではないでしょうか。
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