8 フリードリヒ大王 (1712年 ~ 1786年)






~疑い深い老人として孤独死したプロイセンの大王~






 ドイツ北方の小国、プロイセンを強大化させ、ヨーロッパ列強諸国の一つに仲間入りさせたフリードリヒ2世。




 この功績から、彼はフリードリヒ「大王」 と呼ばれています。





 オーストリア継承戦争や七年戦争で、オーストリア帝国の女帝マリア=テレジアと争い、現在のポーランドにある、豊かで広大なシュレジエン地方を手に入れました。





 しかし、大王とまで呼ばれた彼の晩年は幸福なものではなく、孤独なものであったといわれています。





 なぜなのでしょうか。





 1712年、彼は厳格、武骨者で芸術を解さない「兵隊王」 とあだ名されたフリードリヒ1世の王太子として生まれました。




 国内の大男たちを集めて「ポツダム巨人軍」 を編成し、ドイツの前身であるプロイセン王国の軍事強化に熱心に取り組んでいました。




 これに対し母親は、イギリス国王兼ハノーバー選帝侯、ジョージ1世の娘で、洗練された宮廷人でした。




 両親の教育方針は全く正反対で、事あるごとに2人は対立していました。





 しかし、本来のフリードリヒはむしろ母親似で、生来芸術家気質で特に音楽を好みました。

 フルートの演奏会を開いたこともありました。





 父王はそんなフリードリヒに暴力を振るい、食事を与えず、蔵書を取り上げるなどの虐待に等しい仕打ちをしています。





 1730年、耐えられなくなったフリードリヒは、イギリスに逃亡しようとしましたが、その日のうちに連れ戻され、キュストリン要塞に幽閉されました。





 さらに父王は、彼を処刑しようとまでしました。

 やむを得ず父王に手紙を書いて恭順の意を示し、やっとの思いで釈放されたのでした。





 ところが、彼の逃亡計画を手引きして加担したカイト少尉は、フリードリヒの目の前で処刑されました。




 フリードリヒは窓からその斬首の刑を見るように強制されましたが、正視できぬまま失神したのでした。





 この父親、何とかならなかったのでしょうか。





 あくまでも自分の意のままに息子を育てるためには手段を選ばず、妥協を許さなかったものすごい父親だったのですね。




 この段階で、フリードリヒの基本的人権はことごとく無視されています。




 1740年、父王の死に伴って、彼は第3代プロイセン王として即位します。

 フリードリヒ2世の誕生です。




 優れた軍事的な才能と、合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努めました。




 戦争に勝利するだけでなく、啓蒙思想を掲げて「上からの近代化」 も目指したので彼は啓蒙専制君主の典型と言われています。





 また、国内にジャガイモ栽培を広め、自ら毎日ジャガイモを食べるという率先垂範の行動を通して、食糧事情の改善にも大きな役割を果たしました。




 しかし、彼が本当にやりたかったことは、戦争で領土を広げることだったのでしょうか。




 国王という責任の重い立場で、国家に仕えることが自己目的になってしまっていたとも考えられます。




 フリードリヒは学問と芸術が好きで、哲学者のヴォルテールとも親密に交際しました。

 自ら哲学的な書物も書き、出版もされました。




 趣味のあう友人たちを集めて自由に楽しみ、優雅な余暇を過ごしたこともあります。

 僕はここに彼の本来の姿を見るような気がします。




 でも、国王になり、大王とまで呼ばれてしまっては後には引けなかったのですね。




 「戦争」 という、彼が本来やりたくなかったことを、やらざるを得ない立場になってしまったからでしょうか。
 



 晩年のフリードリヒは、恐ろしいほどかたくなで、人間嫌いの性格になってしまいました。

 何十万人という人々を殺した人間の地獄、悲惨の極みを見てしまったからでしょう。




 自分自身に対しても、他人に対しても厳しく仮借なき献身を要求しました。

 一人一人の人間よりも「国家」 が優先なのです。




 そして、孤独な疑い深い老人と化したのでした。




 死ぬ直前までまじめに仕事をし、最期は飼っている愛犬と葬られたいという希望を部下に伝えています。





 「国王」、それは身分的な重圧ですね。




 彼がこの心労から解放されていれば、もっと豊かな晩年を過ごすことができたのではないかと考えるのは僕だけでしょうか。
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