3 李自成 (1606年~1645年)




~田畑の平等分配をめざした明の農民~




 李自成 (りじせい) は農民出身の明軍の兵士でした。



 しかし、中国明王朝の末期に闖王 (ちんおう) とよばれた高迎祥 (こうげいしょう) という人の反乱軍に加わっていました。



 闖王とは、迷わずにつきすすむ王という意味だそうです。


 結論を先に言えば、李自成は明王朝を滅ぼした農民です。




 1644年、李自成を中心とする解放軍が首都北京に迫りました。


 僕はここではあえて 「反乱軍」 という言葉を使わないようにします。




 明軍は解放軍に参加し、だれも解放軍と戦いませんでした。



 この事実はいったい何を意味しているのでしょうか。



 この時点での中国国民の代表者はいったい誰なのでしょうか。

 少なくとも明の皇帝ではありませんね。



 明の最後の皇帝になった崇禎帝 (すうていてい) は宦官 (かんがん) 一人を連れて宮殿を出て、裏山の景山 (けいざん) で自殺しました。



 276年間にわたる明王朝の最後の瞬間です。


 李自成は戦いの中で多くの人々に主張しました。



 「金持ちどもから取り上げた食べ物はみんなで分け合おう」



 日照りや戦争続きで田畑は荒れ放題。

 飢え死にしそうな人々には 



 「みんなわが軍に加われ。

 そうすれば田畑は平等に分け与えよう。



 税など納めることはないぞ」



 このように民衆の立場に立ち、土地の平等分配を主張したので支持者がたくさん出ました。


1644年に北京を攻めるころには、何と100万人の軍にふくれあがっていました。



 しかしいったん明を滅ぼしたものの、目の前に大きな壁が立ちはだかることになりました。


 呉三桂 (ごさんけい) という明の強力な将軍です。



 彼は明が滅ぶとき、主力を率いて北京の北西にある山海関 (さんかいかん) で清軍と戦い、侵入をくい止めていました。



 ところがその最中で明滅亡の知らせが入ります。

 呉三桂はどう出るか考えた末、結論はこうでした。



 「農民の反乱軍に従うわしではない」



 これは明らかに農民を見下した差別者の言葉ですね。


 彼は異民族の清に降伏し、清と呉三桂の連合軍で北京を攻め落としたのでした。



 これでは李自成もたまりません。


 
 敗れて行方不明になり、戦死したとも自殺したともいわれています。



 清の第3代皇帝の順治帝 (じゅんちてい) は北京に入り約300年にわたる清の中国支配がはじまりました。


 この清の中国支配が良かったのかそうではないのかはさまざまに意見が分かれるところでしょう。



 次の第4代の皇帝である康熙帝 (こうきてい) は中国史上最高の名君であるという意見もあります。



 そしてその後、雍正帝 (ようせいてい) 乾隆帝 (けんりゅうてい) にいたる約100年は黄金時代として清は大いに栄えました。



 しかし、中国の大多数の民族である漢民族は、満州民族独特の髪型であるべん髪を強制されたり、清朝末期にはアヘン戦争や日清戦争をはじめとする多くの悲劇にも見舞われています。



 ただはっきりしている事実は、呉三桂はまもなく康熙帝によってつぶされているということです。


 公平な目で見てもこの当時、中国の民衆から最も支持されていた人は李自成だったと考えられます。




 多くの民衆である貧しい農民の立場に立ち、土地所有における平等を堂々と主張しました。

 一瞬ではありましたが、中国国民の差別からの解放をなしとげかけたといえるでしょう。




 不運だったのは差別者である呉三桂と清軍の武力が強力すぎて、とてもかなわなかったということでしょう。




 僕は李自成の純粋な生き方には共感できるものがあると考えています。




 あまりにもストレートに正面からぶつかって、力でねじ伏せられたことが惜しまれますが、長く人々の心に残る人物の一人だと思います。
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