3 呉三桂 (ごさんけい) (1612年 ~ 1678年)





~権力のために農民を見下し自滅に追い込まれた明の将軍~





 「農民の反乱軍に従うわしではない」

 この一言に、呉三桂の生き方そのものが凝縮されているのではないでしょうか。




 彼は明王朝の歴史に残る有力な将軍でした。




 明の末期に清と戦ったときは、主力軍を率いて北京の北東にある山海関(さんかいかん) を守りぬきました。




 清の時代になってからは平西王として雲南で君臨し、一時は自ら皇帝にもなっています。

 しかしこの呉三桂は、現在でも中国の人々から高く評価されているとはいえません。




 なぜなのでしょうか。




 1644年、約300年続いていた中国の漢民族の王朝、明は滅亡しました。




 最後の皇帝である崇禎帝(すうていてい) は、宮殿の裏山である景山(けいざん) で自殺したのです。




 つき従ったのは、宦官(かんがん) 一人だったといわれています。




 100万人もの農民軍が李自成(りじせい) という農民出身のリーダーに率いられて、明軍に戦いをいどんできたからです。




 崇禎帝は観念して、自ら死を選んだというわけですね。

 ここで、僕が注目したいことが一つあります。




 それは、明軍の兵士たちは誰も李自成の軍と戦わなかったということです。

 それどころか、李自成の軍に参加したのです。




 この事実は、いったい何を意味しているのでしょうか。




 少なくとも崇禎帝は、国民から支持されていなかったということは言えるでしょう。

 さらに一時的ではありますが、このときの国民の代表は李自成だったとも考えられます。




 呉三桂は「反乱軍」 と呼んでいますが、僕は国民の意思を代表した「解放軍」 だったのではないかと考えています。



 さて、このとき明の有力な将軍である呉三桂はどこにいたかというと、首都北京から200km以上も離れた山海関でした。




 中国全体の90%以上を占める漢民族の人々から見れば、異民族の王朝にあたる清の中国侵略を食い止めて戦っていたのです。




 その最中に明が滅んだのでした。




 明を守るために戦っていた彼は、その明王朝自体がなくなってしまったのですから迷いました。

 考えた末の結論はこうでした。




 「清を中国にひき入れて、農民の反乱軍を討つ」




 喜んだのは清軍でした。




 まもなく3代目の皇帝である順治帝(じゅんちてい) が北京に入り、清王朝の中国支配が始まりました。




 李自成の軍は、呉三桂と清の連合軍に討たれて敗れたのです。





 「これで清の天下は定まったな・・・。

  陛下のかたきを討ったが、はたして清軍をひき入れたことがよかったのか、悪かったのか」




 呉三桂は漢民族ではありますが、清の功労者としてそれなりの地位と権力が与えられました。

 しかし、問題はその後です。




 第4代の皇帝・康熙帝(こうきてい) は呉三桂をはじめとする漢人の三つの藩を取りつぶしにかかりました。



 1673年におこった三藩の乱(さんぱんのらん) がこれにあたります。




 呉三桂は、今度は清軍を相手に、明王朝の復活を叫んで戦いを始めたのでした。

 あげくの果てに、戦いの最中に自ら皇帝に即位したのです。




 漢民族の人々の中に、これに反発する人がたくさん出たことは言うまでもありません。

 言葉に尽くせない心労の中で、やがて彼は病死しました。




 結局、誰のための国づくりだったのでしょうか。

 権力に翻弄(ほんろう) された一生だったと思います。




 国民の声を聞き、国民のための国づくりをめざせば、もっと別のやり方があったと考えられます。



 呉三桂の権力志向の背景には、明らかに差別心が見えますね。




 国民の大多数である農民を大切にし、差別心から解放されていれば、このような悲惨な自滅の末路を避けることができたかもしれませんね。
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