1 クロムウェル (1599年 ~ 1658年)





~共和政と独裁の狭間で揺れたイギリス革命の指導者~





 清教徒革命(ピューリタン革命) の中心人物として、中学校や高校の教科書でもおなじみの人物ですね。



 絶対王政を廃止し、共和政を打ち立てた事実はイギリスでも大きなできごとであり、その後の世界史にも大きな影響を及ぼしています。




 同時に、クロムウェルは類(たぐい) まれな指導者か、それとも独裁者か、歴史的評価が分かれているのも事実です。



 大きな業績を残しながら、彼を語る歴史書がそれほど多くないのも不思議だという意見もあります。



 1599年、クロムウェルはイギリス東部のピューリタンであるジェントリ階級の地主の家庭に生まれました。



 日本では関ヶ原の戦いの前年にあたり、これから江戸時代が始まる時期に相当します。




 ケンブリッジ大学で学び、1628年には下院議員になっています。

 その後、治安判事をやったり牧場を経営したりもしました。




 彼の大伯父は、ヘンリー8世のもとで行政改革を実施した実力派の政治家であり、クロムウェルの生家は名家と言われていました。




 当時の国王はチャールズ1世でした。




 かたくなな「王権神授説」 の信奉者です。

 国民とどんな約束を誓ってもそれを守る必要はない、と信じていました。




 だから議会との約束も次から次へと破ったのです。

 これでは国民の代表とは言い難いですね。




 王権神授説は、国王に都合のよい考え方であることは明白です。

 当然のことながら議会を中心に、チャールズ1世への反発が高まっていきました。




 ここでクロムウェルが、歴史の表舞台に登場します。

 1642年、清教徒革命の始まりです。




 国王軍と議会軍の長い戦いになりました。




 クロムウェルは鉄騎隊と名付けられた強力な軍隊を指揮し、新型軍も組織して革命の指導権を握りました。




 ネイズビーの戦いでは、国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導きました。




 そして1649年、ついにチャールズ1世は処刑されました。


 「イギリス人民はここに王政を廃止し、共和政を打ち立てる」





 クロムウェルのこの高らかな宣言は、歴史的瞬間ですね。

 しかし、アイルランドでは彼の残虐な蛮行が噂されています。





 植民地法も制定して、アイルランドはイギリスの植民地にされました。





 議会内部では、チャールズ1世を処刑した後ろめたさから熱意もさめがちになり、対立、不満も長く続いてなかなか安定しなかったのです。





 1653年、彼は武装して議会に乱入し、議長を椅子から引きずりおろし、強引に議会を解散させました。




 そして、選挙を無視して自分に都合のよい人間を指名して、新たな議会をつくったのです。


 これで共和政といえるのでしょうか。





 さらに「統治法典」 なる新憲法を制定して、その中で最高指導者を「護国卿」 と定め、自ら就任しました。




 イギリスは軍事独裁国家のようになってしまったのです。





 1657年、議会は護国卿に王の称号を送るという提案を出しましたが、軍から激しい反対にあいました。




 そのかわり、護国卿の地位は世襲制とし、黄金の錫(しゃく) を持ち、王者の印である紫を身にまといました。




 クロムウェルは最高権力を手にしたわけですね。

 ロンドン市民は彼に冷淡で、彼をほめる本は売れませんでした。





 娯楽施設の閉鎖などの各種政策も、民衆には不評でした。

 クロムウェルは暗殺を恐れ、転々と寝る場所を変えるようになったのです。





 まさに差別心を背景とする、権力と心労に揺れた典型的な人物ではないでしょうか。


 彼の死後、彼の子どもを最後に護国卿は廃止されます。





 歴史上有名な「王政復古」 です。

 クロムウェルの墓も暴かれています。





 彼はいったい、誰のために権力を行使したのでしょうか。





 イギリス国民が、その答えをはっきりと意思表示していると考えられますね。
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