10 万暦帝 (ばんれきてい) (1563年 ~ 1620年)





~内憂外患の心労に揺れた明の皇帝~





 日本の豊臣秀吉が、朝鮮を侵略したときの明の皇帝です。

 秀吉は明を支配する手始めとして、朝鮮を侵略しようと文禄の役をおこしています。



 これに対して万暦帝は、朝鮮の宗主国として援軍を送りました。

 講和のやり取りも、らちが明きませんでした。



 それは、互いに相手国とその間にある朝鮮を見下した差別者同士の戦いだったからです。



 結論を先に言えば、この戦いで豊臣氏は滅亡を早め、万暦帝もまた明の滅亡を早めるきっかけになりました。



 万暦帝はわずか10歳で即位し、48年間も明の皇帝として君臨していました。

 幼少年期は聡明利発で、将来の大器と期待されていました。



 即位した当初は、張居正 (ちょうきょせい)という優れた宰相がいたので、明は安泰でした。



 無駄な官職の撤廃、税を銀で納める一条鞭法 (いちじょうべんぽう)の導入、全国的な検地、無用な公共事業の廃止などにより明の財政が立て直されました。



 これらの政策は 「張居正の改革」 とよばれています。

 1582年、張居正が亡くなると万暦帝の親政が開始されました。



 とたんに、それまでと一転し堕落した政治が行われます。

 宦官と遊んでばかりで、寵姫の偏愛による立太子問題がおきました。



 1592年には文禄の役がおこって苦戦しています。

 「しかたがない。和平を結んでやるか。



 秀吉殿を明王朝の家臣と認め、日本国王の位を授ける」


 この言葉に、豊臣秀吉が激怒したことは言うまでもありません。




 再び戦争です。

 日本では慶長の役と呼んでいます。




 この戦いの最中に秀吉が病死したので、戦争そのものは終わりました。

 しかし、戦死した明軍の兵士は十数万人、使った費用も莫大で財政がひどい状態になりました。




 「ならば、国民からもっと税をとりたてればよい」

 これが万暦帝の政治です。




 全国に税監とよばれる宦官の徴税官を派遣して、厳しい搾取を行わせました。

 国民にとっては大迷惑な話です。




 だから、反発を受けた税監たちが民衆により殺される事件が度々起きましたが、万暦帝は最後まで廃止しませんでした。




 これはいったい、誰のための政策なのでしょうか。




 万暦帝は政治にあまり関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走りました。

 官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行いました。




 このために、一時期は閣僚が一人しかいない、あるいは地方長官が規定の半数しかいないなどという異常事態となりました。




 彼の後半生では25年にわたって後宮にこもり、朝政の場には全く姿を現さなかったといわれています。



 僕が北京に行ったとき、明の十三陵にある万暦帝の墓を見て驚きました。


 それは墓というより、「地下宮殿」 というべき豪華なものだったからです。




 1616年、満州のヌルハチが女直諸部族を統一してハン(王) を名のりました。

 後の清王朝の祖にあたる人物ですね。




 それまで明王朝に貢物を捧げていたので、万暦帝は甘く見ていたのでしょう。

 ところが、2年後にそのヌルハチが明に侵入してきたのです。




 「すぐに大軍をさしむけろ! 軍事費が足りないのなら農民どもからさらに税をしぼりとれ!」

 この期に及んでこれでは、農民たちの悲痛な叫び声がさらに大きく聞こえてきそうですね。




 1619年、中国東北部のサルフで両軍は衝突しました。

 この戦いはヌルハチ軍の大勝利に終わったのです。




 権力を大きく傷つけられ脅かされた万暦帝の心労は、言葉では表せないほどだったのではないでしょうか。




 翌年、あっけなく病死しています。


 58歳でした。




 一般民衆から遊離した、差別者の悲しき末路です。




 「明史」 は「明朝は万暦に滅ぶ」 と評しています。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/171-cb2e5ea8