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2014.01.28
第4章 近 世 (16~18世紀) 2 ガリレイ
2 ガリレイ (1564年~1642年)
~学問の自由のために権力と闘ったイタリアの物理学者~
「それでも地球は動いている」
これはガリレイが直接言った言葉ではありませんが、彼はこの内容の信念をもって、終生学問の自由のために宗教的権力と闘い続けました。
「近代科学の父」 とよばれるイタリアの大物理学者です。
月や惑星についてのさまざまな発見のほか、振子の等時性や慣性運動の原理を発見しました。
特に慣性運動の原理は、後にニュートンが発見した万有引力の法則のもとになった考え方です。
「やっぱりコペルニクスの地動説は正しい」
ガリレイは、自ら作った望遠鏡で天体を観測し、地動説の正しさを証明しました。
コペルニクスは、キリスト教会からの迫害を避けるため、地動説を書いた本の発刊は彼の死が迫ったときになされたのでした。
ガリレイは教会から地動説の撤回を命じられましたが 「科学と宗教は違います」 と反論しました。
1632年、10数年の年月をかけて「天文対話」という本を書いて、地動説の正しさを再び説きました。
これに対して当時のキリスト教会は「地動説は聖書にそむく考えであり誤りである。
ガリレイよ、このような考えをすてることを命ずる」と迫りました。
何かこっけいですね。
21世紀を生きる僕たちから見れば、誤っているのは教会の方であることが自明であるからです。
権力とは本当に恐ろしいものだということを、まざまざと見せつけられる出来事だと思います。
ガリレイの言うとおり、科学と宗教は違うのです。
宗教的な信仰を否定する必要はありませんが、学問としての科学的な事実は、分けて考えるべきでしょう。
そしてついに宗教裁判に発展します。
ガリレイはローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えたという理由で有罪となってしまいました。
判決は終身刑です。
その後、監視つきの自宅軟禁に減刑されました。
それでもフィレンツェの自宅へ帰ることは許されず、監視つきの住居に住まわされ、78歳で亡くなるまでの8年間、散歩以外の外出を禁止されました。
この宗教裁判は、正しいことをしている人間に対する人権侵害になっていることは明らかですね。
二度とあってはならないことだと思います。
教会の執ような人権侵害は、ガリレイの死後も続きます。
遺族は葬式で弔辞を読むことも許されず、ガリレイ自身は、一族の墓に葬られることも許されませんでした。
周囲の人はガリレイが異端者として葬られるのは忍びない、とローマ教皇の許可を待って葬儀を延期しました。
正式に葬られたのは、何と100年後のことです。
その間ガリレイの遺体は教会の隅っこにある小部屋に墓碑銘もないままに葬られていました。
1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレイの無罪を正式に認めました。
ガリレイの死後350年がたってからのことでした。
この数字はいったい何を物語っているのでしょうか。
学問も宗教も、どちらもとても大切なものだと思います。
しかし正しいことを言っているのに、350年も有罪というのは何とかならなかったのかと考えるのは僕だけでしょうか。
ガリレイはとても勇気のある人だったと思います。
度重なる人権侵害に耐え続けました。
当時の権力者からの支配と差別を執ように受けながらも、科学という学問の自由をめざして闘い続けたのです。
この勇気ある生き方は、400年近くたった現在でも世界中の多くの人々の共感をえることができるでしょう。
~学問の自由のために権力と闘ったイタリアの物理学者~
「それでも地球は動いている」
これはガリレイが直接言った言葉ではありませんが、彼はこの内容の信念をもって、終生学問の自由のために宗教的権力と闘い続けました。
「近代科学の父」 とよばれるイタリアの大物理学者です。
月や惑星についてのさまざまな発見のほか、振子の等時性や慣性運動の原理を発見しました。
特に慣性運動の原理は、後にニュートンが発見した万有引力の法則のもとになった考え方です。
「やっぱりコペルニクスの地動説は正しい」
ガリレイは、自ら作った望遠鏡で天体を観測し、地動説の正しさを証明しました。
コペルニクスは、キリスト教会からの迫害を避けるため、地動説を書いた本の発刊は彼の死が迫ったときになされたのでした。
ガリレイは教会から地動説の撤回を命じられましたが 「科学と宗教は違います」 と反論しました。
1632年、10数年の年月をかけて「天文対話」という本を書いて、地動説の正しさを再び説きました。
これに対して当時のキリスト教会は「地動説は聖書にそむく考えであり誤りである。
ガリレイよ、このような考えをすてることを命ずる」と迫りました。
何かこっけいですね。
21世紀を生きる僕たちから見れば、誤っているのは教会の方であることが自明であるからです。
権力とは本当に恐ろしいものだということを、まざまざと見せつけられる出来事だと思います。
ガリレイの言うとおり、科学と宗教は違うのです。
宗教的な信仰を否定する必要はありませんが、学問としての科学的な事実は、分けて考えるべきでしょう。
そしてついに宗教裁判に発展します。
ガリレイはローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えたという理由で有罪となってしまいました。
判決は終身刑です。
その後、監視つきの自宅軟禁に減刑されました。
それでもフィレンツェの自宅へ帰ることは許されず、監視つきの住居に住まわされ、78歳で亡くなるまでの8年間、散歩以外の外出を禁止されました。
この宗教裁判は、正しいことをしている人間に対する人権侵害になっていることは明らかですね。
二度とあってはならないことだと思います。
教会の執ような人権侵害は、ガリレイの死後も続きます。
遺族は葬式で弔辞を読むことも許されず、ガリレイ自身は、一族の墓に葬られることも許されませんでした。
周囲の人はガリレイが異端者として葬られるのは忍びない、とローマ教皇の許可を待って葬儀を延期しました。
正式に葬られたのは、何と100年後のことです。
その間ガリレイの遺体は教会の隅っこにある小部屋に墓碑銘もないままに葬られていました。
1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレイの無罪を正式に認めました。
ガリレイの死後350年がたってからのことでした。
この数字はいったい何を物語っているのでしょうか。
学問も宗教も、どちらもとても大切なものだと思います。
しかし正しいことを言っているのに、350年も有罪というのは何とかならなかったのかと考えるのは僕だけでしょうか。
ガリレイはとても勇気のある人だったと思います。
度重なる人権侵害に耐え続けました。
当時の権力者からの支配と差別を執ように受けながらも、科学という学問の自由をめざして闘い続けたのです。
この勇気ある生き方は、400年近くたった現在でも世界中の多くの人々の共感をえることができるでしょう。
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