3 ヒュッレム・スルタン (1506年 ~ 1558年)





~ハーレムに君臨し後継者で悩み続けたオスマンの帝妃~





 オスマン帝国の最盛期を築き「大帝」 と呼ばれたスレイマン1世の正妃です。



 ヒュッレムは奴隷という絶望的な状態から皇帝の妃にまで登りつめ、後宮であるハーレムを統治する権力を握りました。



 さらに、君主の称号である「スルタン」 を称して、国政に口を出すほどの強い権力を勝ち取った女性です。



 しかし、最後は後継者問題からの心労で病死しています。



 ハーレムという名の「監獄」 の中で、女性差別からは解放されても、自分自身が身分差別をしていたことからは解放されずに、自滅していった女性だったのではないかと考えられます。




 ヒュッレムはロシアの出身です。

 このことから後にロクセラーナとも呼ばれました。



 不幸にも、ロシアの民族抗争に巻き込まれて、敵方に捕えられてしまったのです。

 背景に民族差別があることは容易に想像できますね。



 そして、奴隷としてトルコのイスタンブールに売られてしまいました。

 彼女を買ったのはオスマン帝国の宰相、イブラヒム・パシャでした。



 イブラヒムがヒュッレムをハーレムに入れたところ、その美しさがスレイマン1世の目にとまりました。



 たちまち寵愛を得て、3男1女が生まれたのです。


 そして第2側室という身分になりました。




 その一方で、ヒュッレムはライバルの女性たちを毒殺したり、おとしめて追放したりして、スレイマン1世の寵愛を独占していったのでした。




 たとえば、第1側室と口論になったときは、自ら顔に引っかき傷を作った上でスレイマン1世に呼び出されるように工作をし、皇帝の関心をひくと同時に、第1側室を遠ざけることに成功しています。




 ついに正妃となり、皇帝の政治のアドバイザーとしての役割もできるようになったのです。




 ヴェネツィアのブラガディーノ大使はヒュッレムのことを、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である」 と評しています。




 しかし同じヴェネツィアのナヴァゲラ大使は「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」 と報告しています。




 また、イタリア人のバッサーノは国民の声を記録しています。




 彼は次のように伝えています。




「スレイマン1世のヒュッレムに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての国民があきれ返るほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」




 これだけ愛されたのなら、何でもできそうな気さえしてきますね。

 ところが、後継者については思うようにいきませんでした。




 スレイマンが後継者としたのはヒュッレムが産んだ息子ではなく、別の愛妾が産んだ皇子ムスタファだったのです。



 ムスタファは聡明で人望があり、宰相イブラヒムが擁護していました。




 しかしオスマン帝国では、内部抗争を防ぐために帝位につけなかった皇子たちは処刑されていたのです。




 思わず絶句ですね。


 何と恐ろしい制度でしょう。




 ヒュッレムはまず、反逆の疑いをかけて宰相のイブラヒムを処刑に追い込み、ムスタファを孤立させました。




 そしてムスタファにも反逆罪を着せて、処刑させたのです。




 ここで意外なことがおこります。




 後継者にと目をかけていたヒュッレムの息子ジハンギルは、ムスタファを慕っており、敬愛する兄の死にショックを受けて自殺してしまったのです。




 ヒュッレムの心労はどれほどのものだったでしょうか。

 やがてこれが原因で病に伏せ、病死してしまいました。




 ハーレムの数多くの女性たちや生れた皇子たちは、奴隷や処刑など強烈な人権侵害を受けていたことは明白ですね。




 ヒュッレムはこの絶望的な環境の中でも、大きな権力を握っています。




 しかし、少しでも他の女性たちの自由や皇子たちの命を考える提言や活動をすることができたなら、どうだったでしょうか。

 このような悲劇を防ぐことができたかもしれない、と考えるのは僕だけでしょうか。
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