7 洪武帝 (1328 ~ 1398年)





~権力と猜疑心から孤独死した明の太祖~





 国民の大多数である農民の苦しみをよく理解し、多くの人々から支持されたにもかかわらず、最期は孤独死してしまった皇帝がいます。



 明(みん) の太祖、洪武帝ですね。



 彼は賢明な妻にも恵まれました。

 妻の馬皇后(まこうごう) は明を陰から支えた賢い女性として知られています。




 洪武帝自身も貧しい農民の出身でしたので、彼らの立場に立った行動をとることができました。

 それなのに、なぜ不幸な晩年を迎えることになってしまったのでしょうか。




 本名は朱重八(しゅじゅうはち) といいます。

 四男二女の末っ子でした。




 1344年、この貧しい農家をイナゴの害が襲いました。

 両親と兄弟の多くを失い、生き残ったのは次兄と重八の二人だけだったのです。




 兄の足手まといにならないように寺に入り、雲水(うんすい) として諸国を行脚しました。

 このとき彼はまだ16歳でした。




 1351年、仏教の一派である白蓮(びゃくれん) 教徒たちが中心になって、紅巾(こうきん) の乱がおこりました。




 元王朝に対する反乱で、仲間の目印に頭に赤い頭巾を巻いていました。




 後漢の黄巾の乱と似ていますね。

 朱重八は紅巾の乱に参加するために、郭子興(かくしこう) の軍に入ったのです。




 みるみる頭角を現し、1年とたたないうちに郭に認められ、その養女と結婚しました。

 これが後の馬皇后で、重八も名を朱元璋(しゅげんしょう) と改めました。




 1355年、郭子興が病死し、その後は軍の中心になって活動しました。



 他のライバルたちを次々に滅ぼし、ついに1368年、応天府(現在の南京) で皇帝として即位しました。



 ここに明の太祖、洪武帝が誕生したのでした。

 年齢は41歳です。




 その年、元の都である大都(現在の北京) を落とし、元を北方へ追いやったのです。

 中国全土の統一まではその後20年かかりましたが、久々の漢民族の王朝が成立しました。




 明は約300年続いた強大な王朝で、日本の室町時代から江戸時代の初期までに該当します。




 「農民たちの生活を安定させるのだ。

 きびしい取り立てをしてはいけない。




 農民の苦しみは、私が一番よく知っているからな」




 国民の立場に立てば、何とありがたい皇帝でしょう。

 さらに洪武帝は、農民の道徳教育にも力を尽くしました。




 ところが、自分の直属の部下たちや、支配者階級の知識人たちには極めてきびしくあたりました。



 特に自分の権力を脅かす噂が立った者は、些細なことでも次々に処刑し、残酷な殺し方をしました。



 身体の一部を少しずつ時間をかけて切り刻んでいく凌遅(りょうち) の刑などは、受刑者が長く苦しむ残忍を極めるものとして知られています。




 建国の功臣である胡惟庸(こいよう) や藍玉(らんぎょく) をはじめとして、その犠牲者は実に10万人を超えました。




 まさに恐るべき殺人鬼ですね。




 妻と皇太子にも病気で先立たれています。

 愛妻の馬皇后は病に倒れたとき、名医が来ても診察を断り、薬も飲まずに死にました。




 これには理由があります。




 もし治らなければその医者が殺されるので、医者に診せなかったのです。

 日ごろより洪武帝の残虐さを諫(いさ) めていた皇后の最期の思いやりだったのでした。




 妻と皇太子の墓に参拝しては、一人で涙を流す日が多くなりました。




 「王朝の基礎はゆるぎないものになった。

  しかし・・・ああ・・・



 いつのまにか、みんないなくなってしまった。

 今や私は一人ぼっちだ」




 猜疑心が招いた悲劇ですね。




 権力を握れば握るほど猜疑心に悩まされ、無実の人々もことごとく殺しつくしました。





 自らの差別意識に気づき、そこから解放されていれば、洪武帝の最期の到達点、「孤独死」 は防げたのではないでしょうか。




 精神的な解放で、もっと豊かな人生を送る手立てがあったと僕は考えています。
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