6 フィリップ4世 (1268 ~ 1314年)





~教会支配の闘争から衰弱死したフランス国王~





 中世フランス最強の国王ではないでしょうか。

 国家財政を整え、ローマ教皇を意のままに操り、強敵テンプル騎士団を壊滅させています。




 絶対的な権力を追求した国王で、その中央集権ぶりは、後のヨーロッパ絶対王政への先駆になったと考えられます。




 その整った容貌から美男王、端麗王、美貌王などとも呼ばれていました。




 しかし、国王以外の者が権力を欲しいままにすることを断じて許さなかった彼も、最期は原因不明の衰弱死をしています。




 なぜでしょうか。




 1285年、フィリップ4世は17歳の若さでフランス・カペー朝の第11代国王に即位します。



 当時のローマ教皇、ボニファティウス8世が野心家なら、フィリップ4世も負けず劣らずの野心家でした。




 教皇とは権力をめぐって激しく衝突し、アナーニ事件で監禁して暴力を振るい、その後憤死させています。




 この直前の1302年に開かれた三部会には、特筆することがあります。

 それまで聖職者と貴族だけの会議だったのですが、新しく市民を参加させたのです。





 まだ対等な会議ではありませんが、フランス社会が大きく変わり始めるきっかけを作ることになりました。




 いわゆる国会で、平民が発言できることになった最初の議会です。




 1309年、フィリップ4世は教皇クレメンス5世に迫り、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに強制的に移しました。




 以後約70年間、ローマ教皇はフランス王の意のままに操られることになります。





 このできごとは、高校世界史の教科書で「教皇のバビロン捕囚」 という言葉で紹介されています。




 これは、紀元前6世紀におこった事件になぞらえた呼び方です。




 新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼし、ユダヤ民族の人々をむりやり新バビロニア王国の首都バビロンに連れて行ったことを「バビロン捕囚」 と呼んでいたのです。





 本来は十字軍保護のために結成されていた「テンプル騎士団」 にも、フィリップ4世は刃を放ちます。




 彼の指示を受けた教皇クレメンス5世によって、多くのテンプル騎士団員が処刑されはじめました。




 1314年、最後の総長モレーも火刑に処せられたのでした。




 「我らの正義は神によって明らかになる。

 仇(あだ) なす者に災いあれ」




 モレーはこう叫び、王と教皇を呪いながら燃えさかる火の中に消えていったのです。




 時代は中世です。

 当時の人々は呪いを噂し、恐れおののいていました。




 この国民の声は、フィリップ4世にも容易に届いたことでしょう。




 結論を先に言えば、33日後にクレメンス5世が、7か月後にはフィリップ4世が死を迎えることになったのです。




 フィリップ4世は狩りの最中だったといいますが、原因不明の衰弱死でした。




 「余は呪われている」

心労に満ちたうわごとを言いながら、世を去ったのです。




 強気の国王も、たくさんの人々から恨みを買ったことに対する心労が、何らかの形で影響していることは想像に難くありませんね。




 戦いには強かったけれど、やはり彼の生き方の背景には人を見下す「差別心」 が見え隠れしていると感じるのは僕だけでしょうか。




 権力争いに勝利し、ライバルになった宗教的権力者を次々に闇に葬ったフィリップ4世。




 国民の目線から見れば、たくましさを感じる半面、何もそこまでやる必要があったのだろうか、という疑問も出ていたのではないかと思います。




 彼は50歳まで生きていません。




 彼の精神がもう少し解放されたものであったならば、うわごとを言いながらの衰弱死を避けることができたのかも知れませんね。
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