3 ヘンリー2世 (1133年 ~ 1189年)





~家族と教会を敵にして悩み続けたイギリス王~





 イギリスのプランタジネット朝初代の国王です。



 プランタジネット朝というのは、日本でいう平安時代後期に、ノルマン朝に続いて2番目に成立した王朝です。




 イギリスだけでなく、フランスにも広大な領地を保有し、特にフランスの領地は「アンジュー帝国」 とまで呼ばれていました。




 ヘンリー2世は常に広大な領土に目を光らせており、頻繁に領土の各地を訪れていました。




 国中の修道院には、いつでも使用できる馬を用意しておくよう命じておいたのです。

 だから、34年の治世のうちイギリスにいたのはわずか13年でした。




 法律をきちんと整え、税を課し、従わない男爵の居城は破壊して屈服させました。




 強力な国王という一面もありますが、彼の最期は心労とショックによる憤死である、と僕は考えています。





 なぜでしょうか。





 ヘンリー2世の母親は、ノルマン朝最後の王の娘で、父親はフランスの大貴族アンジュー伯でした。




 さらに彼の妻は、フランス王ルイ7世の妃だったので、相続分の領地もありました。




 これらの親族のおかげで、フランスのノルマンジーからピレネー、南フランスに至る広大な所領をもったのです。




 しかしイングランドと違って、大陸の所領はすべて名目上はフランス王のものでした。

 その限りでは、フランス王の家臣でもあったのです。




 これが、後の百年戦争の遠因になったといわれています。

 彼は、法律の制定を通した権力の行使には積極的でした。




 1162年、事件がおこります。



 クラレンドン法という法律をめぐって、ヘンリー2世はイギリスのカンタベリー大司教ベケットと対立しました。




 それまでは、聖職者の問題は聖職者で裁かれていましたが、この法律は国王が介入することを認めるものです。




 ベケットは断じてこれを認めず、フランスに亡命しました。

 イギリスにもどってきたのは6年後です。




 ヘンリー2世は怒鳴りました。

 「誰がこの厄介者を始末してくれるのか」




 4人の騎士たちが素早く動きました。

 論功行賞を早のみ込みしたのです。




 カンタベリーに向かい、ベケットを惨殺してしまいました。




 ローマ教皇カリクストゥス3世は、異例の早さでベケットを列聖し、以後、カンタベリー大聖堂は巡礼地になりました。




 こうなると、ヘンリー2世はすべてのキリスト教徒の「敵」 ということになってしまいますね。

 当時のイギリス国民は、このできごとをどう見ていたのでしょうか。




 眉をひそめていたのではないでしょうか。

 さすがに焦ったのでしょう。




 ヘンリー2世は懺悔(ざんげ) 服を着て裸足になって、3日かけてロンドンからカンタベリーまで行きました。




 血まみれの足を引きずりながら、大聖堂に到着はしたものの、80人の聖職者たちから罰の鞭打ちを受けています。




 国王の権威が、地に落ちてしまったのです。




 長男のリチャード(後の獅子心王) は、所領を父ヘンリー2世から取り上げられたことで、反乱をおこしました。




 末っ子のジョン(後の欠地王) だけは可愛がっていたのですが、そのジョンも反乱軍に加担しています。




 裏切り者たちの名簿の中に、ジョンの名前を見つけたヘンリー2世は、逆上して出血し、そのまま死んでしまいました。




 言葉では言い尽くせないような心労が伝わってきますね。




 国民の立場に立てば、もっと国民の生活に目を向けてください、と言いたいところでしょうか。

 あまりにもみじめで、孤独な死に方になってしまいましたね。




 権力にとらわれすぎた男の末路です。




 その背景には、強烈な差別心が見え隠れしています。




 彼がもう少し解放された生き方をすれば、少なくとも憤死という死に方だけは避けることができたのではないでしょうか。
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