2 ハインリヒ4世 (1050年 ~ 1106年)





~権力闘争で子どもたちから見放された神聖ローマ皇帝~





 「叙任権闘争」 と呼ばれる権力争いがありました。

 「キリスト教会の聖職者の任命権は誰にあるのか」 という争いです。




 「カノッサの屈辱」 でローマ教皇グレゴリウス7世が勝ったかに見えましたが、その後ハインリヒ4世が雪辱を果たし、グレゴリウス7世をローマから追放しました。




 ところが、これで終わりではなかったのです。




 気がついたら、今度はハインリヒ4世が別の人物により都を追放されて、その追放先で客死してしまいました。




 歴史はくり返しますね。




 1050年、ハインリヒはドイツ中部のゴスラーで生まれました。

 父親は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世です。




 父が早く亡くなったので、ハインリヒ4世は6歳にして王冠を授けられたのでした。


 この年齢では 、諸侯は従いませんね。




 教育も事実上放置され、彼のわがままで頑固な性格は、この時期に形成されたといわれています。




 教皇も圧力をかけてくるし、妻は教皇側に縁のある女性を押しつけられた格好になりました。




 嫌がったハインリヒは離婚を希望し、他にもたくさんの女性に手を出しましたが、意外にもこの妻が彼の最もよき理解者になりました。




 1076年、カノッサの屈辱のときは妻も行動を共にしているのです。




 家臣や子どもも一緒に行きましたが、彼らはどうだったのでしょう。




 雪のアルプスの峠を越え、カノッサでの皇帝の情けない姿を3日も見て、楽しいとは考えられませんね。





 中世のキリスト教世界では、教皇に破門されると法的庇護がありません。

 同時に、死後の地獄行きが決定したことを意味します。





 敬虔なキリスト教徒なら、地獄行きが決定した皇帝についていきたくない、自分も地獄へ行きたくない、と考えるのがむしろ自然でしょう。





 当時の神聖ローマ皇帝の地位は、ドイツ諸侯と教皇の支持という、際どいバランスの上に成り立っていた不安定なものでした。




 このことをよく理解していたのは、彼の子どもたちだったのかもしれませんね。


 戦いにはけっこう強かったですが、ハインリヒ4世の戦いは延々と続きました。





 グレゴリウス7世を追放して、ナポリの南で客死させた後も、ひき続き教皇ウルバヌス2世との対決が始まり、再び苦境に追い込まれました。





 ちなみにウルバヌス2世は、十字軍を始めたことで、高校世界史の教科書にも登場する有名なローマ教皇の一人ですね。





 極めつけは、彼の子どもたちの反乱です。


 まず、後継者とされていた長男のコンラートです。





 彼は父の方針に従いませんでした。

 ウルバヌス2世に恭順の意を示したのです。





 父のハインリヒ4世は、ものすごく頭にきたのではないでしょうか。





 1098年、マインツで王国会議を開き、長男の王位を剥奪し、次男をドイツ王位継承者として定めたのです。





 熾烈な親子戦争になってしまいましたね。


 国民はどちらに味方したかったのでしょうか、とても疑問ですね。






 この親子喧嘩は1101年、コンラートの急死で収まりました。


 次に、次男のハインリヒ(後のハインリヒ5世) です。






 1104年、彼も父ハインリヒ4世に対して、バイエルンの諸侯とともに反逆しました。


 翌年には父王を捕えて幽閉し、退位を強要したのです。






 ハインリヒ4世は辛うじてアーヘンに逃れて再起を図りましたが、決戦をひかえた1106年8月7日、リエージュで客死してしまいました。






 彼のライバル、グレゴリウス7世も全く同じ客死でした。






 どちらも、言葉では表現できないほどの強烈な心労で悩まされていたことは、容易に想像できますね。





 共通して、背後に見え隠れしているのが差別心です。





 この差別心からもっと解放されていれば、少なくとも客死は無かったのではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/155-254da750