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2016.09.15
第3章 中 世(8~15世紀) 2 ハインリヒ4世
2 ハインリヒ4世 (1050年 ~ 1106年)
~権力闘争で子どもたちから見放された神聖ローマ皇帝~
「叙任権闘争」 と呼ばれる権力争いがありました。
「キリスト教会の聖職者の任命権は誰にあるのか」 という争いです。
「カノッサの屈辱」 でローマ教皇グレゴリウス7世が勝ったかに見えましたが、その後ハインリヒ4世が雪辱を果たし、グレゴリウス7世をローマから追放しました。
ところが、これで終わりではなかったのです。
気がついたら、今度はハインリヒ4世が別の人物により都を追放されて、その追放先で客死してしまいました。
歴史はくり返しますね。
1050年、ハインリヒはドイツ中部のゴスラーで生まれました。
父親は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世です。
父が早く亡くなったので、ハインリヒ4世は6歳にして王冠を授けられたのでした。
この年齢では 、諸侯は従いませんね。
教育も事実上放置され、彼のわがままで頑固な性格は、この時期に形成されたといわれています。
教皇も圧力をかけてくるし、妻は教皇側に縁のある女性を押しつけられた格好になりました。
嫌がったハインリヒは離婚を希望し、他にもたくさんの女性に手を出しましたが、意外にもこの妻が彼の最もよき理解者になりました。
1076年、カノッサの屈辱のときは妻も行動を共にしているのです。
家臣や子どもも一緒に行きましたが、彼らはどうだったのでしょう。
雪のアルプスの峠を越え、カノッサでの皇帝の情けない姿を3日も見て、楽しいとは考えられませんね。
中世のキリスト教世界では、教皇に破門されると法的庇護がありません。
同時に、死後の地獄行きが決定したことを意味します。
敬虔なキリスト教徒なら、地獄行きが決定した皇帝についていきたくない、自分も地獄へ行きたくない、と考えるのがむしろ自然でしょう。
当時の神聖ローマ皇帝の地位は、ドイツ諸侯と教皇の支持という、際どいバランスの上に成り立っていた不安定なものでした。
このことをよく理解していたのは、彼の子どもたちだったのかもしれませんね。
戦いにはけっこう強かったですが、ハインリヒ4世の戦いは延々と続きました。
グレゴリウス7世を追放して、ナポリの南で客死させた後も、ひき続き教皇ウルバヌス2世との対決が始まり、再び苦境に追い込まれました。
ちなみにウルバヌス2世は、十字軍を始めたことで、高校世界史の教科書にも登場する有名なローマ教皇の一人ですね。
極めつけは、彼の子どもたちの反乱です。
まず、後継者とされていた長男のコンラートです。
彼は父の方針に従いませんでした。
ウルバヌス2世に恭順の意を示したのです。
父のハインリヒ4世は、ものすごく頭にきたのではないでしょうか。
1098年、マインツで王国会議を開き、長男の王位を剥奪し、次男をドイツ王位継承者として定めたのです。
熾烈な親子戦争になってしまいましたね。
国民はどちらに味方したかったのでしょうか、とても疑問ですね。
この親子喧嘩は1101年、コンラートの急死で収まりました。
次に、次男のハインリヒ(後のハインリヒ5世) です。
1104年、彼も父ハインリヒ4世に対して、バイエルンの諸侯とともに反逆しました。
翌年には父王を捕えて幽閉し、退位を強要したのです。
ハインリヒ4世は辛うじてアーヘンに逃れて再起を図りましたが、決戦をひかえた1106年8月7日、リエージュで客死してしまいました。
彼のライバル、グレゴリウス7世も全く同じ客死でした。
どちらも、言葉では表現できないほどの強烈な心労で悩まされていたことは、容易に想像できますね。
共通して、背後に見え隠れしているのが差別心です。
この差別心からもっと解放されていれば、少なくとも客死は無かったのではないでしょうか。
~権力闘争で子どもたちから見放された神聖ローマ皇帝~
「叙任権闘争」 と呼ばれる権力争いがありました。
「キリスト教会の聖職者の任命権は誰にあるのか」 という争いです。
「カノッサの屈辱」 でローマ教皇グレゴリウス7世が勝ったかに見えましたが、その後ハインリヒ4世が雪辱を果たし、グレゴリウス7世をローマから追放しました。
ところが、これで終わりではなかったのです。
気がついたら、今度はハインリヒ4世が別の人物により都を追放されて、その追放先で客死してしまいました。
歴史はくり返しますね。
1050年、ハインリヒはドイツ中部のゴスラーで生まれました。
父親は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世です。
父が早く亡くなったので、ハインリヒ4世は6歳にして王冠を授けられたのでした。
この年齢では 、諸侯は従いませんね。
教育も事実上放置され、彼のわがままで頑固な性格は、この時期に形成されたといわれています。
教皇も圧力をかけてくるし、妻は教皇側に縁のある女性を押しつけられた格好になりました。
嫌がったハインリヒは離婚を希望し、他にもたくさんの女性に手を出しましたが、意外にもこの妻が彼の最もよき理解者になりました。
1076年、カノッサの屈辱のときは妻も行動を共にしているのです。
家臣や子どもも一緒に行きましたが、彼らはどうだったのでしょう。
雪のアルプスの峠を越え、カノッサでの皇帝の情けない姿を3日も見て、楽しいとは考えられませんね。
中世のキリスト教世界では、教皇に破門されると法的庇護がありません。
同時に、死後の地獄行きが決定したことを意味します。
敬虔なキリスト教徒なら、地獄行きが決定した皇帝についていきたくない、自分も地獄へ行きたくない、と考えるのがむしろ自然でしょう。
当時の神聖ローマ皇帝の地位は、ドイツ諸侯と教皇の支持という、際どいバランスの上に成り立っていた不安定なものでした。
このことをよく理解していたのは、彼の子どもたちだったのかもしれませんね。
戦いにはけっこう強かったですが、ハインリヒ4世の戦いは延々と続きました。
グレゴリウス7世を追放して、ナポリの南で客死させた後も、ひき続き教皇ウルバヌス2世との対決が始まり、再び苦境に追い込まれました。
ちなみにウルバヌス2世は、十字軍を始めたことで、高校世界史の教科書にも登場する有名なローマ教皇の一人ですね。
極めつけは、彼の子どもたちの反乱です。
まず、後継者とされていた長男のコンラートです。
彼は父の方針に従いませんでした。
ウルバヌス2世に恭順の意を示したのです。
父のハインリヒ4世は、ものすごく頭にきたのではないでしょうか。
1098年、マインツで王国会議を開き、長男の王位を剥奪し、次男をドイツ王位継承者として定めたのです。
熾烈な親子戦争になってしまいましたね。
国民はどちらに味方したかったのでしょうか、とても疑問ですね。
この親子喧嘩は1101年、コンラートの急死で収まりました。
次に、次男のハインリヒ(後のハインリヒ5世) です。
1104年、彼も父ハインリヒ4世に対して、バイエルンの諸侯とともに反逆しました。
翌年には父王を捕えて幽閉し、退位を強要したのです。
ハインリヒ4世は辛うじてアーヘンに逃れて再起を図りましたが、決戦をひかえた1106年8月7日、リエージュで客死してしまいました。
彼のライバル、グレゴリウス7世も全く同じ客死でした。
どちらも、言葉では表現できないほどの強烈な心労で悩まされていたことは、容易に想像できますね。
共通して、背後に見え隠れしているのが差別心です。
この差別心からもっと解放されていれば、少なくとも客死は無かったのではないでしょうか。
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MIUMIU 美雨
大川原さま、いつも温かいお心づかいありがとうございます(ペコリン)
世界史を習ううえで、中世における「カノッサ事件」「聖職叙任権」は必ず通る道ですね。しかし「カノッサの屈辱」という言葉のほうが独り歩きして、若者たちの間で悔しい思いをしたときのはやり言葉になってたりするのがおかしいです。
三日間、北アルプスのふもとで雪の中土下座をしたハインリヒはさぞかし寒かったことでしょうね。グレイゴリウスも相当なワルだったことは否めませんが・・・
ボニファチウス時代のバビロニア刑囚の雪辱戦という意図もあったのでしょうか。
そちらは雨の具合どうですか。
せっかくの中秋の名月もかすんでしまい残念でしたが、ご家族と三連休楽しくお過ごしくださいね。今日もこころこめて応援ポチ☆☆☆☆です^^
世界史を習ううえで、中世における「カノッサ事件」「聖職叙任権」は必ず通る道ですね。しかし「カノッサの屈辱」という言葉のほうが独り歩きして、若者たちの間で悔しい思いをしたときのはやり言葉になってたりするのがおかしいです。
三日間、北アルプスのふもとで雪の中土下座をしたハインリヒはさぞかし寒かったことでしょうね。グレイゴリウスも相当なワルだったことは否めませんが・・・
ボニファチウス時代のバビロニア刑囚の雪辱戦という意図もあったのでしょうか。
そちらは雨の具合どうですか。
せっかくの中秋の名月もかすんでしまい残念でしたが、ご家族と三連休楽しくお過ごしくださいね。今日もこころこめて応援ポチ☆☆☆☆です^^
2016/09/16 Fri 23:53 URL [ Edit ]
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