1 グレゴリウス7世 (1022年 ~ 1085年)





~宗教的権威のために追放されて客死したローマ教皇~





 「カノッサの屈辱」 をご存知でしょうか。

 カノッサとは、北イタリアの地名で、中世のお城がありました。




 屈辱とは、服従させられて恥ずかしい思いをすることです。




 これをさせた人がローマ教皇グレゴリウス7世で、させられた人は神聖ローマ帝国(現在のドイツ) 皇帝ハインリヒ4世でした。




 この事件は、世界中にローマ教皇の強い権威を示すことになった世界史上の大きな事件だったのです。




 それまで大きな権力をもっていた皇帝も、教皇の下につくという第一歩の事件でした。



 グレゴリウス7世とは、いったいどのような人だったのでしょうか。





 1022年、グレゴリウスはイタリア北部のトスカーナ地方の貧しい家で生まれました。

 若いころから、フランス東部にあるクリュニー修道院で修行を重ねていました。





 当時のキリスト教会は、お金で聖職が売買されるなど、信仰や宗教的活動が大いに乱れていました。




 だからクリュニー修道院を中心に、教会を改革して信仰を正す運動がおこっていたのです。


 グレゴリウスは、とても真面目な人だったのですね。





 この改革精神を学び、生涯にわたって教会改革に情熱を傾けたのでした。

 そして1073年、ついにローマ教皇に就任したのです。





 「これからは僧が身分を売り買いすることや、結婚することを禁止する。

  教会をまとめるために、聖職者の任命はローマ教皇が行うことにする」





 この宣言に異議を唱えたのがハインリヒ4世です。





 神聖ローマ帝国には数多くの教会があり、それまで皇帝が聖職者を任命していたので、皇帝の権力を守るためにも従うわけにはいきません。





 これに対し、グレゴリウス7世は強い態度で臨みます。


 「ハインリヒ4世をキリスト教会から破門する」





 皇帝はピンチに立たされたのです。





 ドイツは内乱状態になり、破門が解かれなければ、諸侯たちも皇帝に従わないということがはっきりしたからです。





 国民の立場に立てば、大切なことは、きちんと信頼できる聖職者であってほしいということです。




 どちらが任命したかということが、国民にとってそれほど大きな問題であったかどうかは疑問ですね。


 権力闘争は迷惑でしょう。





 ここで例の「カノッサの屈辱」 がおこります。





 1077年、ハインリヒ4世は帽子もかぶらず、そまつな修道服をまといました。

 しかもはだしで三日間、カノッサ城の雪の中庭に立ち、教皇の許しを待ったのです。





 この哀れな姿は、人々の同情を誘ったといわれています。


 しかし、グレゴリウス7世はなかなか許そうとはしませんでした。





 「ニセ修道士」 「教会平和の敵」 などと、さんざんにプライドと権威を傷つけられていたからです。




 クリュニー修道院長のユーグをはじめとして、周辺の人々の懇願もあり、三日後になってようやく破門を解いたのでした。





 ところが、ここからハインリヒ4世の逆襲が始まりました。





 破門を解かれて正規の皇帝に復活した彼は、軍事力と策略で次々に攻撃を加えることになったのです。




 1080年、グレゴリウス7世はもう一度ハインリヒ4世の破門を宣告しますが、コロコロと変わる教皇の態度に同意する者はあまりいませんでした。





 ハインリヒは、ドイツとイタリアのロンバルディアの司教を集めて公会議を開き、グレゴリウス7世の廃位を決定させました。





 1084年、ハインリヒの軍にローマを包囲され、ナポリの南にあるサレルノに追放の身となってしまいました。





 ついにローマには戻れず、この地で寂しく客死しました。





 教皇就任以来、相当な心労がたたっていたことでしょう。





 結局最期は、痛い目にあいました。




 でも、まちがいなく言えることは、信者あっての教皇、国民あっての皇帝です。




もっと平和的に、もっと有意義に共存共栄できる道があったのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
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