9 玄 宗 (685年 ~ 762年)





~女色に溺れた権力で子どもに見放された唐の皇帝~





 唐の時代の中国は、世界の中心的存在であったといってもいいでしょう。


 軍事力は強く、優れた文化もたくさん花開きました。




 都の長安(現在の西安) は人口100万人を超え、世界中から交易や学問、宗教、文化交流などを求めて多くの人々が夢をもって訪れました。




 日本からも遣唐使として、留学生、留学僧などか繰り返し派遣されています。

 阿倍仲麻呂や最澄、空海などは特に有名ですね。




 その唐王朝の黄金時代を築き上げたのが、第6代皇帝の玄宗です。




 特にその治世の前半は「開元の治」 と称され、税制改革や仏教の宗教法人化、軍事力強化の節度使制度の導入など、唐王朝は安定していました。




 ところが玄宗の最期は、2年間の監禁生活の末、失意のうちに病死しているのです。


 この名君に、いったい何があったのでしょうか。




 玄宗は則天武后の孫です。

 唐の第5代皇帝睿宗(えいそう) の第三子として685年に生まれました。




 武后以来の王朝内の権力争いと混乱を収束させたので、皇太子になることができました。

 712年、玄宗は正式に皇帝として即位したのです。




 僕たちの日本では、ちょうど奈良時代が始まったばかりのころですね。




 玄宗も、実にたくさんの女性に手を出しています。

 多くの妃の中で、最愛の寵姫となっていたのは武恵妃(ぶけいひ) という女性でした。




 しかし、737年、彼女が病死します。




 皇帝になってすでに25年がたっていましたが、どうやら玄宗の転換点はここにあったようです。



 このころ側近の宦官、高力士(こうりきし) は玄宗の第18子である寿王(じゅおう) の妃を探していました。




 その中で、玉環(ぎょくかん) という名の美女を発見し、寿王の妃にしたのでした。




 だいたい18子などという数字を見るだけでも、玄宗がいかにたくさんの女性に手を出していたかが伝わってきますね。




 結論を先に言います。




 玄宗はこの寿王の妃、玉環の美しさに舞い上がり、彼女を皇帝の権力で奪ったのです。


 困ったお父さんですね。




 いくらなんでも息子の嫁を奪うなんてことは、普通のこととは思えません。




 ストレートにやれば当然問題になるので、いったん息子と嫁を離婚させて、彼女を出家させるという「形」 をとらせました。




 その上で、後宮に迎え入れるという手段を使ったのです。

 自分のものにするという目的はバレバレですが。





 745年、楊貴妃の誕生です。


 この玉環こそ、世界史上有名な楊貴妃だったのです。





 幼くして両親を失い、親戚に育てられた彼女は、薄幸の少女時代を過ごしていました。

 ところが、その美貌のせいで思わぬ運命が待ちかまえていたのです。





 ちなみに、20代半ばの楊貴妃に対して玄宗は60歳です。

 寿王だけでなく、他の息子たちの呆れた声も聞こえてきそうですね。





 「父には気をつけろ、いつ自分の妻も奪われるかもしれない」

 と不安に思ったことでしょう。





 楊貴妃に溺れた玄宗は、政治をそっちのけにして思うままに愛欲生活を楽しむようになりました。




 彼女を喜ばせようと、楊一族も次々に取りたてました。


 権力の濫用です。





 従弟の楊国忠(ようこくちゅう) を宰相にすると、節度使の安禄山との権力争いが起こり、「安史の乱」 を招いてしまったのです。





 都の長安を離れることを余儀なくされ、途中で兵士の反乱がおこり、楊貴妃も楊国忠も死ぬことになりました。





 乱後、悲しみにくれる玄宗は長安にもどりますが、息子で次の皇帝になっていた粛宗(しゅくそう) は、当然のことながら父を許しません。





 760年、甘露殿というところに移されましたが、これは「監禁」 です。




 40年以上にわたって権力を振るい続けた玄宗も、すべてを失いました。





 当時の多くの国民の意志は、ある意味では、安史の乱とこの2年の監禁に凝縮されているかもしれません。
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