7 煬 帝(ようだい) (569年 ~ 618年)





~心労から都を捨てて自滅した隋の皇帝~





 悠久なる時を経て、広大な中国の大地に、たくさんの人々が今でも毎日のように利用している大動脈があります。




 長さ1,800キロメートルに及ぶ大運河です。




 日本列島の約3分の2の長さに匹敵するこの大運河は、隋の2代皇帝である煬帝が1,000年先の中国の繁栄を見越してつくったものです。




 その壮大な思惑通り、1,000年以上たった現在でも、あまりにも多くの人々に貢献しています。




 しかし、その張本人である煬帝の末路は、自分を守る役目の親衛隊にあっけなく絞殺されるという、悲惨な結果に終わっています。




 なぜでしょうか。




 彼の名は楊広(ようこう) といい、北周王朝の実力者、楊堅の次男として生まれました。

 この楊堅が、後の隋の建国者、文帝ですね。




 楊広は江南の陳(ちん) 王朝を滅ぼすとき、50万の隋軍の総指揮をとって、隋の全中国統一に大きな役目を果たしています。




 しかし、若いころから野心家で、虎視眈々と権力の座をねらっていたことがうかがえます。




 まず、文帝の長男で、楊広の兄であった皇太子の楊勇(ようゆう) をおとしめます。

 趣味で集めていた1,000頭の馬に目をつけたのです。




 楊広はこの兄の趣味を、父文帝に対する反乱の準備だと吹聴したのですね。

 兄は皇太子をおろされ、変わって次男の楊広が皇太子の座につきました。




 次に文帝です。

 父が病気になったどさくさにまぎれて、薬と称して毒薬を飲ませ、あっけなく毒殺したのです。





 こうして楊広は、晴れて2代皇帝、煬帝となることができました。

 自分が権力をにぎるためには、手段を選ばない執念が伝わってくるできごとですね。





 605年、煬帝は新しい都づくりと、大運河建設を命令します。

 特に大運河の建設では、数百万人の人々が強制労働をさせられ、6年後に完成しました。





 しかし、その3分の2にあたる人々が、寒さや飢えで死亡しています。


 これでは生きて帰ってくることの方が不思議です。





 犠牲になった国民の苦しみの声が聞こえてきそうですね。




 それにもかかわらず、611年、煬帝は竜船という豪華な船をつくらせ、完成した大運河をながめて行幸しています。




 運河の両岸には、曳き手が船を曳くための専用の道路までつくらせました。




 煬帝は上から目線で国民を見下し、周辺諸国にも差別的な態度で接し、隋にひれ伏すことを要求して従わせました。




 この中で、光るものが一つありました。




 日本ですね。




 当時は聖徳太子の時代で、小野妹子を遣隋使として派遣しています。

 丁寧に挨拶をしながらも、あくまで「対等外交」 の姿勢で交流しました。




 ところが、挨拶に行かない国が一つだけありました。


 高句麗(こうくり) です。




 煬帝はカンカンになって怒り、3度も戦争をしかけに遠征したのです。

 これが煬帝の命取りになりました。




 200万の大軍を差し向けましたが、すべて失敗。

 部下たちが何度か止めましたが、聞き入れられませんでした。




 嫌がって逃げ出す兵士は後を絶たず、都では反乱が相次ぎ、皇帝としては心労に心労を重ねることになってしまったのです。




 相次ぐ反乱に嫌気がさした煬帝は、都を捨てて暖かい南の楊州に行き、事態の鎮静化を待とうとしました。




 しかし、これは空気の読み違いでした。





 不満は民衆だけでなく、直接の部下たちからも降りかかることになったのです。

 国民の声を代表していたのは、むしろこの部下たちのほうだったと考えられます。





 だれも煬帝の絞殺を、否定する者がいなかったからです。

 彼の壮大な夢は、目の前の国民と部下たちによってストップがかけられました。





 煬帝があと少しでも差別意識から解放されていたならどうだったでしょうか。




 少なくともこのような仕打ちを避けることができたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
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