6 宣 帝 (559年 ~ 580年)





~外戚の圧力で若死にした南北朝時代の皇帝~





 中国の南北朝時代末期の557年、華北に北周(ほくしゅう) という王朝が建てられました。

 都は長安です。




 日本では、飛鳥時代にあたりますね。




 3代目の皇帝であった武帝は皇太子(後の宣帝) に対し、きびしいしつけをくり返し、杖(つえ) 打ちの刑をよくやっていました。




 皇太子は相当なストレスと恨みを持ちながら、このことがトラウマになっていたようです。




 後に宣帝として無事に即位し、第4代の皇帝になりましたが、彼はわずか22歳で死亡しています。




 いったい、彼の身に何があったのでしょうか。




 宣帝は、皇太子時代に結婚しています。

 相手の女性の父親は楊堅(ようけん) といって、後に隋の文帝になった人でした。




 この結婚で、楊堅は北周の皇帝の外戚として強い力をもつようになりました。




 577年、ついに北周は華北を統一します。




 このとき楊堅は、3万の水軍を率いて大きな手柄をたて、ますます強い発言権をもつようになりました。



 宣帝が皇帝として正式に即位したのは、翌年の578年です。




 皇帝になった宣帝が真っ先にやったことは、自分の父と一緒にきびしいしつけをした重臣たちを皆殺しにしたことです。




 執念の仕返しですね。




 彼の杖の恨みはよほど深かったと見えて、臣下に与えた罰は、いつも自分がさんざんに受けた杖打ちの刑でした。




 しかし、このことは不幸にも、その後わずか2年で北周が滅亡する原因になってしまいました。

 優秀な人材がいなくなってしまったからです。




 580年、宣帝は次のように言い放って、8歳の皇太子(静帝) に位を譲ってしまいました。



 「皇帝といっても政治は楊堅が行っているようなものだ。




 もういやだ。皇太子に帝位を譲るぞ」




 その上で、自分は皇帝の上に位する天元天皇であると宣言しました。

 父がいなくなったのでやりたい放題で、淫蕩三昧の生活をしたと伝えられます。




 あげくの果てに、自分の妻を暴力でいじめました。

 楊堅をおびき出して、殺害する作戦だったのです。




 権力争いのためとはいえ、何か大人げない行動ですね。


 妻は無実を訴えて、夫の暴力に耐え続けました。




 しかし、この作戦は裏目に出ます。


 しっかりとした口調と足取りの楊堅に、宣帝は逆に説教を食らうはめになったのです。




 「陛下、つまらぬ考えはお捨てなさい!」


 その恐るべき迫力に、宣帝の方がおびえ続けることになりました。




 「こわい、楊堅に殺される!」




 心労が心労をよび、それから1ヵ月後に重い病気にかかり、22歳の若さでこの世を去ったのです。




 あまりにも短く、あまりにもはかない、権力の頂点に立った男の自滅の末路でした。


 翌581年、楊堅は幼い静帝から位を譲り受け、皇帝に即位しました。





 隋の文帝の誕生です。

 ここに北周は滅亡し、隋が成立したのです。




 そして589年、隋は全中国を再び統一することに成功します。

 漢や晉以来の久々の統一王朝ですね。




 ところが、この楊堅も悲惨な最期を遂げます。

 604年、何と自分の次男によって毒殺されたのです。





 この次男こそ、後に中国史上屈指の暴君と呼ばれるようになる隋の2代皇帝、煬帝(ようだい) だったのです。





 宣帝の一生を考えると、暴力では人は育たないということを痛感させられます。


 このことは僕たち一般庶民にも、多くの場合に言えることでしょう。





 しつけのためとはいえ、杖打ちの刑は表面だけ服従するだけで、人を育てるという意味では効果があったとは思えません。





 宣帝もその父親も、もっと別のやり方があったのではないか、と考えさせられる歴史上のできごとですね。
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