4 宗 江 (そうこう) (生没年不明)




~腐敗しきった権力に立ち向かった水滸伝の英雄~




 水滸伝 (すいこでん )という中国の歴史小説が、多くの人々に人気があるのはなぜでしょうか。

 もちろん、おもしろいからです。



 ただ、僕はそれだけでないと考えています。



 一般庶民の立場に立って本音が余すことなく描かれ、読者は自分たちのこととして共感できる部分がたくさんあるからだと思います。



 その水滸伝の主人公のモデルになった人物が宗江 (そうこう) という歴史上実在した人物です。



 舞台は今から約900年前、中国北宋 (ほくそう) の末期で8代皇帝徽宗 (きそう) が支配していた時代です。



 日本では平安時代の終わり近くにあたります。

 ただ残念なことは、宗江に関する正確な史料が極めて乏しいことです。



 宋の時代の歴史を書いた 「宋史」 に、宗江という人物が36人をひきいて反乱をおこし、政府軍もその勢いに恐れをなしたという短い記録が残されています。



 生没年もいまだに不明のままです。


 当時の支配者にとっては、よほど都合の悪い人物だからこうなったのですね。



 でも、僕はあえてこの宗江に、歴史上の人物として光をあててみたいのです。

 水滸伝は小説なので、歴史上の事実から見ると誇張や創作が多くなるのは言うまでもありません。



 しかし、そこには一般庶民の本音と希望が、生き生きと描かれていると考えられます。



 支配者側からの歴史にはあまり取りあげられませんでしたが、権力に苦しめられていた庶民の側の歴史が、小説というものに形を変えて、語り伝えられているのです。



 この時代を支配した徽宗は芸術の感覚にすぐれ、風流天子とよばれていました。

 しかしぜいたくが好きで、政治的には失政が多く、後に北宋の国を滅亡へと導くことになります。



 蔡京 (さいけい) をはじめとする取り巻きの役人たちも、自分の出世が優先で、庶民の生活をないがしろにしていたため、たくさんの人々が苦しんでいました。



 たとえば花石綱 (かせきこう) というのがありました。



 宮中の庭園用に江南地方の珍しい樹木や石を集めたとき、その御用船団につけた名前が花石綱です。



 重い石を運ばされた農民たちの重労働はもちろんですが、ただ飾りのための大きな石を川の船で運ぶとき、橋がじゃまになったので橋をこわしたということも伝えられています。



 これに対して宗江は親孝行で情け深く、人の危機を救ったり、困っている人にお金を貸したりするなど、人望の厚い人物でした。



 武芸にも通じ、日ごろから天下の豪傑たちと親しく付き合っていたそうです。



 身分の低い役人でしたが、友人のケンカの仲裁で遅刻したり、罪をおかした兄弟分を裏口から馬を用意して逃がしたこともあったといわれています。



 彼を知る人は、宗江のことを 「及時雨」 (きゅうじう)、つまり 「恵みの雨」 と呼んでいました。



 宗江は人々から望まれて梁山泊 (りょうざんぱく) という無法者の軍団のリーダーにおされ、36人の豪傑とともに政府軍と戦いました。



 勝利の快挙は何度もありましたが、最終的には政府軍の武力の前につぶされました。


 僕はこの反逆者たちの反乱を、あえて一般庶民たちの解放運動ととらえたいです。



 理由は、現在でも 「無法者」 とよばれた彼らは、広く中国の国民に支持されているからです。



 水滸伝の後半、約50章は梁山泊が政府と和解し、官軍として遼 (りょう) という隣の国と戦ったり、各地の反乱を平定して活躍した記述がありますが、これは史実ではありません。



 でも、むしろこれはこういう生き方もあったのではないか、という作者の建設的な意見だと考えてはどうでしょうか。



 正面からの戦いだけでなく、こんなやり方もあっていいのではという庶民の願いの一つの表れかもしれません。



 一般民衆の立場から中国史を見れば、宗江こそ魅力ある英雄だったのではないでしょうか。

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