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2016.07.28
第2章 古 代 (1~7世紀) 4 劉 裕(りゅうゆう)
4 劉 裕(りゅうゆう) (363年 ~ 422年)
~出世後2年で幕を閉じた五胡十六国の武将~
五胡十六国時代は、日本でいうと古墳時代にあたります。
中国では三国時代が終わると、晉(しん) という王朝が一時的に天下を統一します。
しかし、五胡(ごこ) と呼ばれる五つの異民族に次々に侵入されて、国の北半分を奪われてしまったのです。
このとき、晉の一族が江南にのがれて318年に建てた王朝が東晉です。
劉裕はこの東晉の武将として活躍していましたが、結局自ら東晉を滅ぼして、江南に宋(そう) という王朝を建てて皇帝になった人物です。
363年、劉裕は長江下流地域にある江蘇省(こうそしょう) で、東晉の下級官吏の子として生まれました。
母は産後の肥立ちが悪く、劉裕が生まれてから産熱で亡くなったので、義理の姉が乳を飲ませています。
幼少時代は困窮した生活で、口減らしに父に絞め殺されかけたこともありました。
その父も劉裕が10歳のときに死に、早くも両親を失うことになりました。
わずかに有していた田での耕作や、草履を商いながら生計を立てていました。
学問には全く興味を示さず、知っている文字は4つか5つほどしかなく、博打が大好きでした。
とても恵まれた少年時代とは言い難いですね。
親の愛情や経済的な豊かさに飢えて育ったのでしょうか、成長した劉裕は大変気性の激しい男になっていました。
しかし、その一方で器量も大きく、身分不相応な大望も持っていました。
同時代を生きた田園詩人、陶淵明(とうえんめい) にはこう言っています。
「おれのように家柄がよくない者は、軍人として名をあげるしか、出世の道はないからな。
まあ見てろ! どんどん出世してやるぞ」
383年、東晉は華北の前秦(ぜんしん) をひ水(ひすい) の戦いで破り、前秦はその11年後に滅亡します。
しかし、江南の東晉でも各地で反乱が起こり、国内は大変乱れていました。
たくさんの王朝が興亡し、戦乱が絶えなかったのですね。
これらの一連の戦乱の中で、劉裕は着々と頭角を現しはじめました。
当時のある女性は、次にように評しています。
「劉裕の歩きぶりは龍か虎のよう、目つきも尋常ではなく、他人の下に甘んじているような人物とはとても思えません」
その通りになりました。
418年、彼は東晉の皇帝である安帝を殺害したのです。
そして、東晉最後の皇帝となる恭帝を擁立しました。
禅譲(ぜんじょう) を計画した劉裕は420年、恭帝から禅譲を受け、皇帝に即位しました。
武帝と名のったのです。
「とうとう皇帝になったぞ。
これよりわが王朝を宋とよぶ!」
権力の頂点に立った劉裕の喜びに満ちた笑顔が、目に浮かぶようですね。
ところが、彼はその後恭帝を殺害しました。
さらに驚いたことに、東晉の皇室一族も次々に殺害しているのです。
後顧の憂いを絶つためでしょうが、過酷な人権侵害でもありますね。
その権力の絶頂にあった劉裕は、わずか2年後の422年、あっけなく死亡します。
病名ははっきりしませんが、長い間の戦いで疲れ切った心労が、何らかの関係をもっているのではないかと僕は考えています。
僕がこう考えるのは、彼が皇帝になってからの生活が、決して穏やかではないと思うからです。
その政策は、大地主を解体して戸籍の整備を行うというものです。
この政策に、大地主たちが簡単に従ったとは思えませんね。
劉裕は、今度は大地主たちを次々に殺害しているのです。
彼は、人を殺すために生まれてきたのでしょうか。
劉裕の死後も、帝位をめぐる内乱が続き、479年に宋王朝はあえなく滅亡しました。
血で血を洗うような、権力争いが続いたのです。
彼が夢見た権力の頂点からの眺めは、それほど楽しいものではなかったと思います。
彼は、歴史に名を残した中国の英雄の一人でしょう。
しかし、もっと別の生き方も可能であった、と考えるのは僕だけでしょうか。
~出世後2年で幕を閉じた五胡十六国の武将~
五胡十六国時代は、日本でいうと古墳時代にあたります。
中国では三国時代が終わると、晉(しん) という王朝が一時的に天下を統一します。
しかし、五胡(ごこ) と呼ばれる五つの異民族に次々に侵入されて、国の北半分を奪われてしまったのです。
このとき、晉の一族が江南にのがれて318年に建てた王朝が東晉です。
劉裕はこの東晉の武将として活躍していましたが、結局自ら東晉を滅ぼして、江南に宋(そう) という王朝を建てて皇帝になった人物です。
363年、劉裕は長江下流地域にある江蘇省(こうそしょう) で、東晉の下級官吏の子として生まれました。
母は産後の肥立ちが悪く、劉裕が生まれてから産熱で亡くなったので、義理の姉が乳を飲ませています。
幼少時代は困窮した生活で、口減らしに父に絞め殺されかけたこともありました。
その父も劉裕が10歳のときに死に、早くも両親を失うことになりました。
わずかに有していた田での耕作や、草履を商いながら生計を立てていました。
学問には全く興味を示さず、知っている文字は4つか5つほどしかなく、博打が大好きでした。
とても恵まれた少年時代とは言い難いですね。
親の愛情や経済的な豊かさに飢えて育ったのでしょうか、成長した劉裕は大変気性の激しい男になっていました。
しかし、その一方で器量も大きく、身分不相応な大望も持っていました。
同時代を生きた田園詩人、陶淵明(とうえんめい) にはこう言っています。
「おれのように家柄がよくない者は、軍人として名をあげるしか、出世の道はないからな。
まあ見てろ! どんどん出世してやるぞ」
383年、東晉は華北の前秦(ぜんしん) をひ水(ひすい) の戦いで破り、前秦はその11年後に滅亡します。
しかし、江南の東晉でも各地で反乱が起こり、国内は大変乱れていました。
たくさんの王朝が興亡し、戦乱が絶えなかったのですね。
これらの一連の戦乱の中で、劉裕は着々と頭角を現しはじめました。
当時のある女性は、次にように評しています。
「劉裕の歩きぶりは龍か虎のよう、目つきも尋常ではなく、他人の下に甘んじているような人物とはとても思えません」
その通りになりました。
418年、彼は東晉の皇帝である安帝を殺害したのです。
そして、東晉最後の皇帝となる恭帝を擁立しました。
禅譲(ぜんじょう) を計画した劉裕は420年、恭帝から禅譲を受け、皇帝に即位しました。
武帝と名のったのです。
「とうとう皇帝になったぞ。
これよりわが王朝を宋とよぶ!」
権力の頂点に立った劉裕の喜びに満ちた笑顔が、目に浮かぶようですね。
ところが、彼はその後恭帝を殺害しました。
さらに驚いたことに、東晉の皇室一族も次々に殺害しているのです。
後顧の憂いを絶つためでしょうが、過酷な人権侵害でもありますね。
その権力の絶頂にあった劉裕は、わずか2年後の422年、あっけなく死亡します。
病名ははっきりしませんが、長い間の戦いで疲れ切った心労が、何らかの関係をもっているのではないかと僕は考えています。
僕がこう考えるのは、彼が皇帝になってからの生活が、決して穏やかではないと思うからです。
その政策は、大地主を解体して戸籍の整備を行うというものです。
この政策に、大地主たちが簡単に従ったとは思えませんね。
劉裕は、今度は大地主たちを次々に殺害しているのです。
彼は、人を殺すために生まれてきたのでしょうか。
劉裕の死後も、帝位をめぐる内乱が続き、479年に宋王朝はあえなく滅亡しました。
血で血を洗うような、権力争いが続いたのです。
彼が夢見た権力の頂点からの眺めは、それほど楽しいものではなかったと思います。
彼は、歴史に名を残した中国の英雄の一人でしょう。
しかし、もっと別の生き方も可能であった、と考えるのは僕だけでしょうか。
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