3 劉 備 (161年 ~ 223年)





~家柄と心労に揺れ続けた三国時代の英雄~





 僕が中国に行ったとき、現地案内係の添乗員さんは、上手な日本語で


 「私は、劉備玄徳(りゅうびげんとく) の子孫です」




 と誇らしげに、自己紹介をしていました。

 小説の三国志演義のせいでしょうか、今でもとても人気があります。




 劉備は「人民のための平和な国づくり」 という夢をいだいて活動し、その人柄が彼の部下や、多くの領民に慕われていました。




 新野城主になったときは、税の取り立てを軽くしたので、領民思いの城主として信頼されていました。




 劉備は、漢の高祖劉邦の子孫です。




 第6代の皇帝、景帝から分家した名門の家柄ですが、15歳のときに父が亡くなりました。

 だから貧しい生活を余儀なくされ、むしろなどを売って暮らしていました。




 母親は何度も言い聞かせていました。




 「おまえは漢の王族の子孫なのです。

 劉一族の誇りを忘れてはいけません」




 しかし、このころの後漢王朝は、幼い皇帝が連続的に即位し、宦官(かんがん) や外戚(がいせき) が権力争いを繰り返し、政治は乱れていました。




 さらに国民は、次々に起こる洪水や日照りの害に苦しみ、飢え死にする人々が道ばたにあふれているというありさまでした。




 このような中で、張角(ちょうかく) という人物が、互いに助け合って生きる平等な社会の実現をめざして、数十万人の国民とともに「黄巾の乱」(こうきんのらん) を起こしました。




 黄巾とは、彼らが仲間の目印としてつけていた黄色い頭巾のことです。

 このとき、劉備はこう言って立ち上がりました。




 「世の中を騒がす黄巾の賊(ぞく) めらを叩きつぶして、漢王室を再興する」




 彼のもとには、豪傑で有名な張飛(ちょうひ) や関羽(かんう)、極めて優秀な軍師である諸葛孔明(しょかつこうめい) など、さまざまな優れた人物が集まりました。




 三国時代の到来です。




 黄巾の乱を鎮圧し、劉備は天下統一をめざした他の二人のライバルである魏の曹操(そうそう) や呉の孫権(そんけん) と戦いました。




 この中で後漢は滅び、劉備は蜀(しょく) の国を起こし、皇帝になったのです。




 彼は「漢」 と呼んでいましたが、現在では前漢や後漢と区別するために、蜀漢または「蜀」(しょく) と呼ばれています。




 この時期の内容は三国志に詳しく、本や漫画、映画、ゲームなどになって、実際に読んでみると、とてもおもしろいですね。




 しかし、ここで違和感を覚えるのは僕だけでしょうか。

 劉備の夢にはとても共感できますが、問われるのは「立ち位置」 です。





 あくまで漢王朝という支配者側の立ち位置で、多くの国民を上から目線で見ていないでしょうか。




 「黄巾の賊めら」 という言葉には、このことが凝縮されていると思います。




 国民の立場からその本音を代表しているのは、むしろ張角の方です。

 新しい暮らしやすい世の中を望んで、あえて漢王室には期待せず、世直しを望んだのですね。




 ならば、これを「乱」 と見るのは支配者側で、国民の立ち位置から見れば「解放戦争」 でしょう。



 その証拠に、張角は途中で戦死してしまいますが、彼の「太平道」 という宗教は後に道教として発展し、現在に至るまでたくさんの中国の人々に影響を及ぼしているからです。




 世界史でいう黄巾の乱に参加した人は、太平道の信者以外にもたくさんいたのです。

 三国時代の三国は、いずれも間もなく次々に滅亡しています。




 これは、支配者側同士の権力争いと考えられます。

 劉備は「義」 という儒教の徳目にもとらわれすぎていたようです。




 愛する部下が戦死した心労を抑えきれず、弔い合戦をするために、軍師孔明の忠告も聞かず、無理な戦いをしかけて自滅しました。




 223年、敗れて白帝城に落ちのびた劉備は重い病気にかかり、そこで息を引き取りました。




 勇敢で情に厚い、魅力的な武将でした。




 しかし、縛られなくてもよい何かに縛られ続けたために、自ら寿命を縮めてしまった。




 こんな考えもあるのではないかと思うは、僕だけでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/147-9107b690