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2016.06.16
第1章 紀元前の世界 12 プトレマイオス12世
12 プトレマイオス12世 (前117年 ~ 前51年)
~追放されてローマにへつらった古代エジプトの王~
一番わかりやすい言い方は「クレオパトラの父親」 でしょうか。
古代エジプト末期の国王(ファラオ) です。
紀元前のエジプトは、さまざまな王朝が複雑に興亡しています。
古王国、中王国、新王国などと呼ばれますが、この新王国の後に、約300年続いた王朝がプトレマイオス朝です。
首都のアレクサンドリアは、アレクサンダー大王が作った町で、彼の名にちなんでつけられた名前です。
そのアレクサンダー大王の死後、彼の優秀な部下の一人であるプトレマイオス1世が、紀元前305年にエジプトに興した王朝がプトレマイオス朝ということになります。
プトレマイオス12世が即位したころは、かの有名なローマ帝国の支配下に入る直前の時期で、エジプト滅亡寸前の混乱期のファラオとなったのです。
娘のクレオパトラは、事実上最後の女王といったところでしょうか。
プトレマイオス12世もクレオパトラも、波乱の生涯を送ることになりました。
プトレマイオス12世は、国民から「笛吹き王」 と呼ばれて馬鹿にされていました。
なぜでしょうか。
昼間から酒を飲み、遊び戯れて笛を吹く王の姿は、国民の間で噂になっていました。
僕は、彼は度重なる心労をまぎらわすために、酒と笛に心の平安を求めていたのではないかと思います。
そもそも、王位をめぐる血なまぐさい争いは何代も前から続き、王家の直系はとだえてしまっていました。
前王プトレマイオス11世のいとこにあたる彼が即位はしたものの、王家や国民の中には反対派も多く、ローマにたくさんの贈り物をして、やっと認めてもらっていたのです。
音楽好きではあったけれど、政治能力はほとんどゼロと見なされていました。
大国ローマの顔色ばかりうかがう情けない王であることは、自他共に認めていたのです。
ローマへの多額の賄賂のつけとして大増税を行ったときは、多くの国民から怒りの声があがりました。
さらに、プトレマイオス12世の弟はキプロス王でしたが、このキプロスがローマに攻められたとき、兄である彼は援軍を送らず、見殺しにしてしまったのです。
弟は服毒自殺をして果てました。
紀元前58年、ついに軍隊がベレニケのもとに集まりました。
ベレニケはプトレマイオス12世の娘で、クレオパトラの姉にあたります。
ベレニケはカッパドキア(現在のトルコ) の大司教アルケラオスと結婚してエジプトの女王になり、ここに至って、プトレマイオス12世はエジプトから追放されました。
逃げて行った先は、ローマの実力者ポンペイウスのところです。
当時11歳の少女だったクレオパトラは父を慕っていましたが、離れ離れになってしまいました。
彼はここでも借金をし、王への復位をめざして議員や軍人に賄賂を送りました。
権力への執念ですね。
努力の甲斐あってか、夢は再び実現しました。
3年後の紀元前55年、ローマの将軍アントニウスに守られたプトレマイオス12世は、エジプトの王座に返り咲いたのです。
女王になっていた娘のベレニケは、戦いに敗れて処刑されました。
自分の娘を殺したのですね。
しかし、そのわずか4年後、悩み多かった一生を終えて、彼はあっけなく病死してしまいました。
まさに、権力と心労に振り回され続けた一生だったのではないでしょうか。
そこには権力のためなら手段を選ばない、差別者の姿が見え隠れする、と思うのは僕だけでしょうか。
「笛吹き王」 と馬鹿にされ、大増税で国民に迷惑をかけ、あげくの果てに娘と敵対して、負ければ賄賂、勝てば殺害。
いったい、誰のための国王、誰のための権力だったのでしょうか。
プトレマイオス12世の心が、このこだわりからもっと解放されたものであったならば、全く違う人生を送ることも可能だったのではないでしょうか。
そして当時の国民も、もっと自由な、もっと別の生活を送ることができたのではないか、と僕は考えています。
~追放されてローマにへつらった古代エジプトの王~
一番わかりやすい言い方は「クレオパトラの父親」 でしょうか。
古代エジプト末期の国王(ファラオ) です。
紀元前のエジプトは、さまざまな王朝が複雑に興亡しています。
古王国、中王国、新王国などと呼ばれますが、この新王国の後に、約300年続いた王朝がプトレマイオス朝です。
首都のアレクサンドリアは、アレクサンダー大王が作った町で、彼の名にちなんでつけられた名前です。
そのアレクサンダー大王の死後、彼の優秀な部下の一人であるプトレマイオス1世が、紀元前305年にエジプトに興した王朝がプトレマイオス朝ということになります。
プトレマイオス12世が即位したころは、かの有名なローマ帝国の支配下に入る直前の時期で、エジプト滅亡寸前の混乱期のファラオとなったのです。
娘のクレオパトラは、事実上最後の女王といったところでしょうか。
プトレマイオス12世もクレオパトラも、波乱の生涯を送ることになりました。
プトレマイオス12世は、国民から「笛吹き王」 と呼ばれて馬鹿にされていました。
なぜでしょうか。
昼間から酒を飲み、遊び戯れて笛を吹く王の姿は、国民の間で噂になっていました。
僕は、彼は度重なる心労をまぎらわすために、酒と笛に心の平安を求めていたのではないかと思います。
そもそも、王位をめぐる血なまぐさい争いは何代も前から続き、王家の直系はとだえてしまっていました。
前王プトレマイオス11世のいとこにあたる彼が即位はしたものの、王家や国民の中には反対派も多く、ローマにたくさんの贈り物をして、やっと認めてもらっていたのです。
音楽好きではあったけれど、政治能力はほとんどゼロと見なされていました。
大国ローマの顔色ばかりうかがう情けない王であることは、自他共に認めていたのです。
ローマへの多額の賄賂のつけとして大増税を行ったときは、多くの国民から怒りの声があがりました。
さらに、プトレマイオス12世の弟はキプロス王でしたが、このキプロスがローマに攻められたとき、兄である彼は援軍を送らず、見殺しにしてしまったのです。
弟は服毒自殺をして果てました。
紀元前58年、ついに軍隊がベレニケのもとに集まりました。
ベレニケはプトレマイオス12世の娘で、クレオパトラの姉にあたります。
ベレニケはカッパドキア(現在のトルコ) の大司教アルケラオスと結婚してエジプトの女王になり、ここに至って、プトレマイオス12世はエジプトから追放されました。
逃げて行った先は、ローマの実力者ポンペイウスのところです。
当時11歳の少女だったクレオパトラは父を慕っていましたが、離れ離れになってしまいました。
彼はここでも借金をし、王への復位をめざして議員や軍人に賄賂を送りました。
権力への執念ですね。
努力の甲斐あってか、夢は再び実現しました。
3年後の紀元前55年、ローマの将軍アントニウスに守られたプトレマイオス12世は、エジプトの王座に返り咲いたのです。
女王になっていた娘のベレニケは、戦いに敗れて処刑されました。
自分の娘を殺したのですね。
しかし、そのわずか4年後、悩み多かった一生を終えて、彼はあっけなく病死してしまいました。
まさに、権力と心労に振り回され続けた一生だったのではないでしょうか。
そこには権力のためなら手段を選ばない、差別者の姿が見え隠れする、と思うのは僕だけでしょうか。
「笛吹き王」 と馬鹿にされ、大増税で国民に迷惑をかけ、あげくの果てに娘と敵対して、負ければ賄賂、勝てば殺害。
いったい、誰のための国王、誰のための権力だったのでしょうか。
プトレマイオス12世の心が、このこだわりからもっと解放されたものであったならば、全く違う人生を送ることも可能だったのではないでしょうか。
そして当時の国民も、もっと自由な、もっと別の生活を送ることができたのではないか、と僕は考えています。
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