11 李 陵 ( ? ~ 前74年)





~名門のプライドが家庭崩壊につながった漢の将軍~





 儒教の徳目の一つの「孝」(こう) は親によく服従することを意味する言葉でしたね。




 この孝という考え方にこだわり、自分の家名のプライドを捨てられなかったために、家族を悲劇に追いこんでしまった人物がいました。




 李陵(りりょう) という漢の将軍です。

 日本では「山月記」 で有名な中島敦の小説「李陵」 で知られる実在の人物です。




 高校の現代国語の教科書では、山月記が教材になっていますので、聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。




 李陵の生まれた家は、代々武門の名門の家柄でした。

 先祖は秦の名将、李信で、漢の武帝の時代に生きた李陵も、この家柄を誇りにしていました。





 この時代の中国は、現在のモンゴルにあたる騎馬民族、匈奴(きょうど) との戦いが頻繁に行われていたのです。




 だから、彼も戦いで活躍して孝をなし、一族の名を有名にすることを強く望んでいたため、日ごろから激しい武術の訓練を積んでいたのでした。




 しかし、武帝の下した命令は、彼にとって心外なものでした。




 「戦場に食料を運べ」





 李陵は、この命令に我慢できなかったのですね。

 李広利(りこうり) という将軍の下につくことにも、不満があったようです。





 李広利の妹は武帝の寵愛を受けていたからで、このおかげで李広利は将軍になれたのでした。


 李陵は自分に戦闘命令を下すように、武帝に直接強く願い出ました。




 その内容は歩兵5,000です。

 ちなみに相手方の匈奴は、騎兵30,000です。




 約6倍ですね。




 誰が見ても不利なことは、火を見るよりも明らかでしょう。

 自殺に等しい戦闘におもむくようなものですね。




 李広利にはすでに30,000の兵が与えられていました。

 その願い出の迫力におされ、武帝はしぶしぶ許可を与えたのでした。




 李陵はよく奮戦し、8日間にわたってさんざんに匈奴を苦しめ、10,000を打ち取りました。



 後に「奇跡の奮戦」 と呼ばれることになります。



 しかし、援軍が来ないまま矢も食料も尽き、結局降伏して捕えられました。




 匈奴の王は李陵の勇敢さを認め、部下になるように何度も誘いましたが、李陵は固辞し続けました。



 ところが、ここで思わぬ誤報が武帝の耳に入ります。





 「匈奴に捕えられた李将軍という人物が裏切って、漢を攻撃している」





 激怒した武帝は、李陵の妻子、祖母、母、兄、兄の家族、従弟とその家族まで、皆殺しにしてしまいました。




 後にこの李将軍とは、李緒(りお) という別の将軍だったことがわかりましたが、時はすでに遅かったのです。




 刑は執行された後でした。

 李陵も激怒し、李緒を殺しました。




 さらに伝令を伝えた人物まで殺されています。




これは、何ということでしょう。




 かくして、李陵には失うものが何もなくなりました。

 今さら漢に戻ったところで、夢も希望も何もありません。





 すべてをあきらめて、残った人生を匈奴で生きることを決意します。





 匈奴の王の娘と結婚して、子どももできました。

 右校王という地位に任命されて、匈奴の将軍として活躍し、その後の一生を匈奴で終えました。





 この一連の悲劇の背景には、「家柄」 という差別的な権威が見えますね。





 李陵がこの差別的な意識から解放されていれば、「食料を運ぶ」 という仕事に誇りをもって従事することができたかも知れません。





 プライドというのは、ある程度は持っていることは必要かと思います。

 しかしあまり行き過ぎると、根本から破壊されてしまうという典型的な例ですね。





 この意味で、李陵の生き方には反面教師として、大いに学べるところがあるのではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/141-36d8f11a