10 武 帝 (前156年 ~ 前110年)





~強大な権力と迷信に振り回された漢の皇帝~





漢の黄金時代を築いた強力な皇帝として、高校世界史の教科書でもおなじみの有名人です。

しかし、武帝の時代は全盛期であると同時に、衰退の始まりでもありました。




内にも外にも強大な権力を発揮しましたが、意外にも迷信に弱いところがありました。

自分の権力を守るために視野が狭くなり、誰が本当の味方か敵かわからなくなりました。




自分の権力の座を脅かす者におびえ、排除しようとする小心者でもありました。




 紀元前141年、武帝は16歳という若さで皇帝に即位しています。




 さすがにこの頃は10代の若さだったこともあり、家臣のさまざまな意見を政治に取り入れようと努力しました。




 その中の一つが、儒学を国の学問にしたことです。

 儒教では、次のように教えているからです。





「子が親を、弟が兄をうやまうように、君主をうやまえ」




 この教えは、その後の中国に極めて大きな影響を及ぼすことになりました。

 秩序はできますが、支配者にとって都合のよい教えとも考えられますね。




 身分差別もしやすくなり、さまざまな差別を正当化する理論にもなりえます。




 時代は下りますが、僕たちの日本でも、江戸幕府が同じことをやっています。

 そして、江戸幕府という強大な権力を支える思想になったことは明白ですね。




 武帝は、対外遠征も積極的にやりました。




 北方の匈奴(きょうど) をはじめ、南越とよばれたベトナム北部、西域、朝鮮にも進出して力を示しました。




 しかし、度重なる外征は財政難を招き、国内は乱れ、民衆の暮らしが苦しくなったことも事実です。




 高層の宮殿を4つもつくらせたことも、財政難に拍車をかけています。

 これは、公孫卿という怪しげな方士の進言によるもので、武帝が「不老不死」 すなわち「永遠の命」 を求めた結果でした。





 秦の始皇帝とそっくりですね。





 紀元前91年、武帝にとっても、その家族にとっても不幸な事件が起こります。

 歴史上は巫蠱の乱(ふこのらん) とよばれている冤罪(えんざい) 事件です。




 巫蠱とは木偶(でく) という木でつくった人形を土の中に埋めて、相手を呪い殺そうとする呪術です。




 迷信であることは明らかです。




 結論を先に言えば、この武帝を呪うための呪術をやったということで、皇太子が死罪に追い込まれ、皇后である衛后も連座させられ、ともに自殺してしまいました。




 さらにこれより先、最初の皇后であった陳后(ちんこう) も、すでに同じ理由で廃后、幽閉されて、関係者300人以上が殺されています。




 巫蠱の乱でも、他の多くの人々が殺されています。




 武帝は無実の二人の皇后と、戻太子(れいたいし) という名の皇太子を次々に失うことになったのです。




 冤罪だと上奏する者が次々に現れ、武帝は激しく後悔することになりました。




 思子宮(ししきゅう) という、子を思う宮殿を作らせ、悶々としながら5年後に亡くなりました。




 迷信に振り回された、不幸な晩年を送ることになったのです。


 なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。





 巫蠱の乱は、武帝の側近である江充が仕組んだ罠でした。

 自分と合わない戻太子を、次の皇帝にしたくなかったというだけの話です。





 まんまとだまされた武帝の姿に、権力に取りつかれた哀れな男の末路を見るような気がしますね。




 皇帝である前に、自分は夫であり父である、ということを普段から大切にしていれば、一家の悲劇は防げたのではないでしょうか。




 武帝の生き方にも、反面教師として学べるところがあると思います。




 どんなに高い社会的地位や名声を得ても、僕たちは少なくとも、自分の配偶者や子どもを殺すような生き方はしたくないですね。
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