3 玄 奘(げんじょう) (602年?~664年)




~皇帝からの差別を乗り越え一途に生きた唐の天才~




 三蔵法師 (さんぞうほうし) という名のほうが、むしろよく知られていますね。


 玄奘 (げんじょう) は孫悟空 (そんごくう) で有名な 「西遊記」 に登場する三蔵法師のモデルになった人物です。



 彼の姓名は陳い (ちんい) といい陳家は代々学者であった家の出身でした。

 13歳のころ出家しましたが、玄奘は一度講義を受けるとたちまちその内容を理解したといわれるほどの天才児でした。



 出家をしてから修行を続けていくうちに、玄奘は中国語に訳されていた仏教の経典が、正確ではないということに気がつきました。



 自分が絶対に正しいと信じて疑わなかった中国語の経典に、疑問をもつようになったのです。

 この疑問を解決するためには、仏教の原典に接するしかありません。



 そのためには、仏教が生まれた国である天竺 (てんじく) つまり現在のインドへ行くことが必要になるのです。


 天竺へ行くためには西域の気の遠くなるような熱い砂漠や、凍るような寒くて険しい山脈を越える旅が待っていました。



 まさに命がけの旅となるでしょう。



 玄奘は死を覚悟して、仏教の正しい経典を持ち帰るために皇帝にこの旅を申し出ました。


 当時の皇帝は唐の第2代目、太宗・李世民 (たいそう・りせいみん) でした。



 彼の治世は 「貞観の治」 (じょうがんのち) とよばれ、唐の黄金時代を築いたすぐれた皇帝として、世界史上広くその名を知られています。



 しかし、太宗は若い僧である玄奘を見下します。



 国禁ということで、玄奘の願いを認めませんでした。


 皇帝の権威の方が優先だったのですね。



 玄奘はあきらめずに突っ張ります。



 「町や制度や軍隊を形だけ整えてもだめです。

 人々の心に正しい仏教の教えを広めてこそ、国はゆるがなくなります。」



 「正しい仏教を知れば皇帝陛下 (李世民) のお心も静まり、それを受けて国も平和になるでしょう。」


 しかし、何を言われても李世民は皇帝の権力で玄奘をねじ伏せ、旅を許可しませんでした。



 こうなると 「密出国」 しかありません。



 629年、玄奘はひそかに命がけで旅立ちました。

 唐の追手からのがれながら、心の中で玄奘は考えました。



 「民衆は飢えで苦しんでいる。

 皇帝は仏の慈悲に目覚めてください。

 戦争に勝つだけでは人々の心に本当の平和は来ないことに気づいてください。」



 実は、太宗・李世民は自分の兄と弟の2人を殺して皇帝の座に就いていたのでした。



 権力を握るために肉親を殺したのです。

 彼も心の隅に罪の意識をもっていたのです。



 それから17年後、玄奘は何度もくじけそうになりながら目標を達成し、天竺から唐の国へともどって来ることができたのです。



 さすがの太宗も感動し、今度は国禁を破った玄奘をあたたかくむかえました。

 ようやく玄奘の本気と純粋さ、仏教のすばらしさを認めました。




 「私と唐の国を救ってくれ」

 この言葉は当時の太宗の気持ちを良く表していますね。



 結局玄奘は、差別を乗り越えて、自分の信念を貫き通し続け、納得のいく人生をまっとうした人物といえるのではないかと思います。



 その背景には、仏の前に平等というシャカの教えがあります。


 権力者である太宗は、最初は玄奘を差別し、力で支配しようとしました。



 しかし、そのあまりにも一途な生き方に感動し、自分自身の差別心にも気づいたのかもしれません。



 玄奘のすばらしさは、苦労をしながら、ただ仏教を天竺から正しく伝達したすぐれた僧ということだけではないと思います。



 権力者からの差別を乗り越えた、その生き方にもっと光をあてると、僕たちはさらに学び生かすことができるのではないでしょうか。
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