8 恵 帝 (けいてい) (前211年 ~ 前188年)





~母親に絶望して若死にした漢の2代皇帝~





 中国の「三大悪女」 とよばれている女性たちをご存知でしょうか。

 漢の呂后(りょこう)、唐の則天武后、清の西太后の3人です。




 生きた時代はみんな違いますが、共通点は3人とも皇帝の妻という権力者であり、ライバルがいました。




 そのライバルたちに対して、目を覆いたくなるような残虐な行為をしたことも共通点です。


 この3人の中の一人、呂后の息子が恵帝です。




 結論を先に言えば、恵帝はこの母親のために精神を病み、23歳という若さで亡くなってしまうという悲劇に見舞われています。





 彼の身にいったい何があったのでしょうか。





 恵帝の父親は有名な漢の高祖、劉邦です。

 悲劇の始まりは、すでに呂后の父親の考え方と行動に見ることができる、と僕は考えています。




 呂后の少女時代の本名は呂雉(りょち) といいました。

 彼女の父親は徐州市沛(はい) の名士です。




 だから、常々自分の娘を貴人のもとへ輿入れさせたいと願っていました。




 当時、下級役人をしていた劉邦を見込み、強引に娘を嫁がせたのです。

 劉邦には、すでに妻子がいたにもかかわらずです。




 呂雉は劉邦の経済的な貧しさにがっかりし、2年間も捕虜になるという辛酸をなめましたが、この父の読みは、「出世」 という意味では的中したといえるでしょう。




 3年後に、夫は皇帝に、自分は皇后に、そして息子は皇太子になったのですから。





 しかし、問題はここからです。





 権力を握った者の心労が、守りの姿勢で渦巻くことになりました。

 まず、漢の創立に貢献した家臣たちを次々に葬り去りました。




 中でも、武力に優れた韓信は一族もろとも殺されました。




 次に劉邦が病死して16歳の恵帝が即位すると、呂后のライバル戚姫(せきき) とその息子である如意に刃が向けられました。




 恵帝は戚姫を嫌ってはいなかったようで、異母弟の如意もかわいがっていました。




 呂后が如意を殺そうとしたとき、繊細で心やさしい恵帝は弟を守ろうと、片時も彼のそばから離れませんでした。




 しかし抵抗むなしく、一瞬の隙をつかれてあっけなく毒殺されてしまいました。

 彼が母親に対する不信感をもったことは想像に難くないですね。





 恵帝には、もう一つ悩みがありました。

 両親とも浮気癖があり、自分は劉邦の子ではないのではないか、と噂された事です。





 恵帝は、父親の劉邦には全く似ていませんでした。

 父親は呂后の浮気相手である審食其(しんいき) という男性ではないかというのです。





 身の回りの世話をする侍臣(じしん) で、劉邦亡き後も生涯その関係が続いたといいます。





 このことを、劉邦の寵愛を受けていた戚姫から聞かされた恵帝は大変悩み、母親の呂后に問い詰めたこともありました。




 極めつけは、呂后が行った信じられないような行為です。




 戚姫を牢獄に押し込めて髪を切り、首枷(くびかせ) をはめました。




 息子如意の毒殺を知らされて嘆き悲しむ戚姫を裸にし、側近の宦官に命じて両足を広げさせました。




 むきだしになった陰部を踏みつけて、別の監獄から凶悪な殺人犯を何人も連れ出して、かわるがわる抱かせたのでした。




 さらに声が出なくなる薬を飲ませてから手足を切り落とし、両目をえぐり取らせました。




 あげくの果てに、四肢を失った彼女を豚小屋を兼ねた厠(かわや) に閉じ込めて「人豚」(ひとぶた) と呼ばせたのです。




 排泄物にまみれた戚姫の凄惨(せいさん) な姿を目にした恵帝は、涙にむせびながら呂后に食ってかかりました。





 「これでもあなたは人間なのですか!」





 あまりのショックで寝込み、その後国政はそっちのけで酒色にふけり、若くして病死しました。





 この悲劇を防ぐために、もっと早く何とかすることができなかったのでしょうか。

 権力への強烈な野心と、その背景に見え隠れする差別心がなせる業です。





 当時の国民は、この事実をどう受け止めたでしょうか。





 二度とあってはならないことですね。





 この凄惨な悲劇からも、後世に生きる僕たちは、人間としての生き方の大切なことを学ぶことができるのではないでしょうか。
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