6 項 羽 (こうう) (前232年 ~ 前202年)





~権力直前で四面楚歌に絶望した武の達人~





 四面楚歌(しめんそか) とは、まわりが敵ばかりで絶望的な状態のことをいいます。




 天下統一目前で、この状態から自殺に追い込まれた人物が項羽です。




 秦の始皇帝亡きあと、後の漢の劉邦(りゅうほう) と天下をめぐって争った、宿命のライバルとして有名ですね。



 漢文の授業では毎年必ず、虞美人(ぐびじん) とともに登場します。




 身長2メートルの武の達人で、戦えば連戦連勝。

 秦を滅ぼして皇帝になってもおかしくなかった項羽が、自殺に追い込まれた背景には何があったのでしょうか。




 項羽は戦国七雄の一つである楚(そ) の国の将軍の家に生まれます。

 楚の誇り高き名門です。




 しかし、紀元前223年、秦により滅ぼされてしまったのでした。



 当時少年だった項羽にとって、このことは生涯忘れられない強烈な怨みをもつことになったのでしょう。




 始皇帝の巡幸の行列を見たときに、言い放ったと伝えられる彼の一言です。

 「よし、あいつにとって代わってやる」




 始皇帝が病死すると、たちまち秦に対する反乱が全国各地でおこり、項羽もその一人として名をあげることになりました。



 劉邦も、この反乱軍の一つを立ち上げることになったのです。




 項羽の作戦は、元の楚の王族の一人を探し出し、懐王(かいおう) と名付け、反乱軍のシンボルにしました。



 しかし、これは明らかに傀儡(かいらい) で、かつての楚の王を慕う人々の心をとらえようとして利用したのでした。




 その証拠に、都合が悪くなると、懐王は項羽に殺されてしまいました。


 虎視眈々(こしたんたん) と権力をねらっている様子が伝わってきますね。





 このできごとに憤慨し、正面から宣戦布告をしてきたのが劉邦です。

 最初から項羽は、平民出身の劉邦を 「成り上がり者」 と言って馬鹿にしていました。





 これは、出身による身分差別ですね。


 兵法をよく学んでいたので、項羽の軍は強力でした。





 戦うたびに劉邦を破り、行くところには多くの死体が山のように折り重なり、火が燃え上がるという地獄のような風景がくり返されました。





 降伏してきた始皇帝の子どもを殺し、秦を滅ぼして阿房宮(あぼうきゅう) という大宮殿にも火を放っています。





 一時は権力を握り、「西楚の覇王」(せいそのはおう) と名のって反乱軍の頂点に立ち、天下取りに絶対優位なところまでいきました。





 しかし、最終的には垓下(がいか) の戦いで四面楚歌に追い込まれてしまいました。





 なぜなのでしょうか。





 まず項羽は、上から目線で人を見下し、何でも自分で決めないと気がすまない性格でした。




 名門出身のプライドがそうさせたのでしょうが、部下の働きもなかなか認めようとしませんでした。





 そして強くても残虐な戦い方をくり返していたので、部下たちは次々に項羽のもとを離れて、劉邦のもとに走るようになったのです。





 このことは、項羽の大きな心労になったと考えられますが、楚の国の人たちだけは自分の味方だと思っていたのです。





 しかし、垓下で劉邦軍に囲まれたとき、四方から楚の国の歌を聞いたのです。

 この衝撃的な事実から、楚の人々も劉邦軍に寝返ったということを悟ったのでした。





 劉邦を差別的なまなざしで扱っていた項羽は、プライドをズタズタに切り裂かれたのでした。

 度重なる心労に絶望し、死を決意したのもこのときでしょう。





 紀元前202年、項羽は四面楚歌の垓下を飛び出し、長江の近くの烏江(うこう) というところまで逃げ、敵兵数百人を殺してから自殺しました。





 31歳というあまりにも早い死でした。





 「この結果は天の意志だ。

 断じて私の武勇が劉邦のやつに劣っていたからではない」





 項羽は最後までプライドを捨て切れなかったのですね。





 他に生きる道はなかったのでしょうか。




 とても考えさせられる、武の達人の「熱き生き方?」 です。
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